説教要旨

毎週日曜日の礼拝説教の要旨を載せています。ご覧くださり、ぜひ礼拝にお越し下さい。

2024年4月

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4月7日

聖書箇所:ルカの福音書9章7節から9節、18節から27節
説教題:「十字架の意味」

テーマ ~自分を捨て、自分の十字架を負って、神のキリストであるイエス様に従う~
1.イエス様とはいったいだれなのか(7~9節&18~20節)
  領主ヘロデはイエス様のすばらしいうわさを聞いても、イエス様がだれなのか分かりませんでした。
  一方群衆は、イエス様に対して、ローマの支配を打ち破り自分たちを解放してくれるリーダーの姿を期待し、重ね合わせていました。
  そんな中、イエス様は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と聞かれました。するとペテロが「神のキリストです」と答えました。イエス様こそ神様によって油注がれた方、真の王ですと彼は告白したのです。

2.イエス様が来られた目的(21~22節)
  すばらしい信仰告白の言葉ですが、イエス様は弟子たちを戒められました。実は弟子たちも群衆と同じように、イエス様に対して人々を治める王様という、自分たちの思い描くキリスト像を投影していたのです。
  イエス様はご自分が来られた使命について「人の子は多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」と語られました。それは人々が期待していた姿、弟子たちが期待した姿とは正反対のものでした。

3.イエス様に従うとは(23~27節)
  さらにイエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と仰いました。「自分のためではなく、主の栄光のために生き、苦難を受け入れて、わたしに従いなさい」とイエス様は仰るのです。 しかしその先には、苦しみや痛みが吹き飛んでしまうほど大きな幸いがあります。それは救いです。従う者にイエス様は本当の救いを与えてくださいます。

願い

  イエス様に従って行くこと、それは自分を捨て、イエス様の栄光のために生きること、苦難を受け止め、歩んでいくことです。それはしんどいことでもあるでしょう。しかし、その先には本当の救いがあります。救われている幸いを覚え、自分を捨て、十字架を負って、イエス様に従っていきたいと願わされます。 


 ―今週のみことば―
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、

日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」ルカの福音書9章23節 

 

4月14日

聖書箇所:ルカの福音書9章28節から36節
説教題:「栄光に輝く姿」

テーマ ~私たちを贖うため、神様が選んでくださった神の御子イエス様~
1.イエス様の、神のキリストとしての栄光(28~31節)
  キリストとしての使命をイエス様が明らかにされてから、8日ほどたったときのことです。イエス様は、祈るために山に登られました。
  すると、イエス様が祈っておられる間に御顔の様子が変わり、衣が白く光り輝きました。神のキリストとしての栄光に輝く姿になられたのです。
  さらにモーセとエリヤが現れて、イエス様が成就しようとされていた最後についてイエス様と話しました。それは、イエス様が私たちの罪の身代わりとなることで、私たちを滅びから救ってくださるということ、すなわち「贖い」についてでした。

2.あまりの出来事に、理解できなかった弟子たち(32~33節)
  この様子を見ていたのが、ペテロとヨハネとヤコブでした。彼らはひどい眠気に襲われていましたが、目が覚めると、イエス様の栄光と、イエス様と一緒にいる二人を見ました。
  するとペテロが「3人のために幕屋を造りましょう」と言い出しました。イエス様の神の御子としての栄光と、モーセとエリヤを見たペテロは、目の前のあまりの出来事に舞い上がり、自分がどうすれば良いのか、何を言うべきかわからなかったのです。

3.イエス様を選ばれたことを明らかにされた神様(34~36節)
  そんな中、雲が弟子たちをおおいました。そして雲の中から「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」という声がしました。それは神様の声でした。神様ご自身がイエス様について証言してくださったのです。
  神様は、イエス様を「わたしの『選んだ』子」と仰いました。罪人である私たちを贖うために、御子であるイエス様を選んだということを、神様は明らかにしてくださったのです。
  そして神様は続けて「彼の言うことを聞け」と仰いました。神様が選ばれた方、真の救い主イエス様の仰ることを聞き、信じ、従いなさいと命じられたのです。

チャレンジ

  神様は罪人である私たちを贖うために、御子イエス様を選び、十字架にかけてくださいました。このイエス様こそ真の救い主です。今こそイエス様を信じ、従っていきましょう。 


 ―今週のみことば―
すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」ルカの福音書9章35節 


4月21日

聖書箇所:ルカの福音書9章37節から43節前半
説教題:「不信仰な曲がった時代」

テーマ ~不信仰な者をさえ教え導くイエス様の深いあわれみ~
1.弟子たちに頼んでも癒されなかったと助けを求めた父親(37~40節)
  私たちを贖うために「選んだ」と神様ご自身が証言してくださったイエス様。そんなイエス様たちが山から下りて来られると、たくさんの群衆がイエス様を迎えました。
  すると、一人の父親がイエス様に、自分の一人息子を見てほしいと願いました。息子に霊が取りついて、非常に苦しんでいたからです。この父親は弟子たちにも助けを求めましたが、弟子たちには霊を追い出すことができませんでした。

2.主に信頼しない不信仰を嘆かれたイエス様(41節前半)
  ところが、父親の叫びを聞いたイエス様は「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と仰って嘆かれたではありませんか。
  イエス様が嘆かれたのは、イエス様に治せるかどうか疑った父親に対するものであり、またイエス様に信頼できなかった弟子たちに対してのものでした。またなによりも、イエス様のみわざに驚きつつも、イエス様をキリストと受け入れず、信じないで、最後には十字架にかけてしまう群衆に対しての嘆きでした。それは、不信仰な曲がった時代である、罪の世に対する嘆きでした。

3.不信仰な者を見捨てず、あわれんでくださったイエス様(41節後半~43節前半)
  しかし、不信仰を嘆かれたイエス様でしたが、愛想をつかし、見捨てたわけでは決してありませんでした。イエス様は父親に「息子をここに連れて来なさい」と命じ、悪霊を叱って息子を癒してくださいました。  イエス様は不信仰な者を見捨てず、主に信頼するようにと教え導いてくださるお方なのです。

考えよう

  私たちもまた、時にイエス様を信頼できず、不信仰に陥ってしまうことがあるかもしれません。しかしイエス様はそんな不信仰な私たちを見捨てずに、導いてくださいます。主を信じるように、主に信頼するようにと私たちを教え導いてくださるお方です。そして、困難の中から救ってくださるお方です。私たちを教え導いてくださる方、イエス様に信頼して歩んでいきましょう。 


 ―今週のみことば―

イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」 ルカの福音書9章41節 


4月28日

聖書箇所:イザヤ書43章10節から12節
説教題:「主の証人」

テーマ ~主によって救われた主の証人として、主を証しする~
1.主のしもべとして選んでくださった主(10節)
  主の証人について、主は「わたしが選んだわたしのしもべ」と言われました。
  これは、イスラエルがなにか優れていたからしもべになれたということではありません。選ばれたイスラエルの民は、むしろ主に背き、主を拒んでいました。それでも主は彼らを「わたしの証人」として選んでくださったのです。
  主がイスラエルの民を選ばれたのは、まず民自身に主こそ真の神であるということを知らせ、信じさせ、悟らせ、主の証人として用いるためでした。

2.主こそ真の救い主(11~12節前半)
   それゆえ、主は言われます。「わたし、このわたしが主であり、他に救い主はいない」と。主ご自身が、救ってくださるということを告げて下さり、その御手で救い出してくださり、この救いが主のみわざであることを主が預言者を通して解き明かし、聞かせてくださいました。
  そして主こそ唯一の救い主ということを、イスラエルの民は身をもって知りました。イスラエルの民は、主以外に救い主はいないということを体験した、まさに生き証人だったのです。

3.主を証する主の証人(12節後半)
  「だから、あなたがたはわたしの証人」と主は言われました。主こそ唯一の救い主であると身をもって知ったからこそ、主の証人として確かな証をすることができます。「主こそ唯一真の救い主です。主は私を救ってくださったお方なのです」とすなおに証することができるのです。

チャレンジ

  私たちもまた、主によって救われました。主ご自身がひとり子であるイエス様を遣わしてくださり、イエス様が罪の身代わりとなって十字架に架かり死んでくださったことで、私たちは罪の滅びから救われました。主によって救われたことに心から感謝し、主の証人として証していきましょう。 


 ―今週のみことば―

わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はいなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。 ―主のことば― わたしが神だ。    イザヤ書43章11~12節

2024年5月

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5月5日

聖書箇所:ルカの福音書9章43節後半から50節
説教題:「へりくだった心で」

 テーマ~イエス様のようにへりくだった心で仕える~
1.へりくだりを必要としていた頑なな弟子たち(43節後半~45節)
  イエス様がなさったすべてのことに人々がみな驚いていると、イエス様は弟子たちに、ご自分が人々の手に渡される時が来ようとしていること、それが神様のみこころであることを覚えておくようにと仰いました。
  しかし弟子たちは、このことばについてイエス様に尋ねるのを恐れました。イエス様が仰っていることの意味が自分たちにはわからないということを認めることができなかったのです。

2.へりくだって仕えることを教えられたイエス様(46~48節)
  さらに、弟子たちの間に議論が持ち上がりました。それは「だれが一番偉いか」というものでした。自らを誇る思いが弟子たちをとらえていたのです。
  そんな弟子たちに対してイエス様は「自らを誇るのではなく、わたしと同じようにへりくだって人々に仕えなさい」と教えられました。イエス様こそ、最もへりくだり、仕えてくださった方です。このイエス様に倣うことこそ、私たち一人ひとりに求められていることなのです。

3.ご自分に倣うようにと教え続けられたイエス様(49~50節)
  ご自分に倣い、へりくだるようにと教えられたイエス様。ところが、弟子たちはイエス様に教えられても、他人と比べることをやめられず、なかなか変わることができませんでした。
  しかしそんな弟子たちに、イエス様は他人と比較するのではなく、主に従うように、イエス様の姿に倣うようにと教え続けられました。

願い

  私たちもまた、弟子たちと同じように誘惑に負け、自らを誇ってしまう者です。しかし、イエス様はそんな私たちに語り続けてくださっています。わたしに倣い、へりくだって人々に仕えなさいと。へりくだり、人に仕えるために来てくださった神の御子イエス様にこそ、目を向け続けていきたいと願わされます。 


 ―今週のみことば―
彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」ルカの福音書9章48節 


5月12日

聖書箇所:ルカの福音書9章51節から62節
説教題:「ただイエス様を見て」

テーマ ~すべてを捨ててイエス様に従う~
1.主のみこころに従われたイエス様と驕り高ぶっていた弟子たち(51~56節)
  ご自分の使命を受け止め、毅然とエルサレムへと進まれたイエス様は、サマリアの村へと行かれました。しかしサマリアの人々はイエス様を受け入れませんでした。
  それを見た二人の弟子は激怒しましたが、イエス様はそんな二人を叱られました。彼らはサマリア人を見下し、驕り高ぶっていたのです。

2.イエス様に従う者に求められるもの(57~62節)
  そんな弟子たちにイエス様は、イエス様に従って歩む者に求められるものは何なのかを教えられました。
①困難の中でもイエス様に従う覚悟
  ある人がイエス様に言いました。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と。しかし、そんな人にイエス様は仰いました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」と。どんな困難の中にあっても、イエス様に従う。その覚悟があなたにはあるかとイエス様は問われたのです。
②与えられた使命を第一とすること
  別の人は「まず行って、父を葬ることをお許しください」と言いました。この人は「イエス様に従います」と言いましたが、実は全てをイエス様に明け渡してはいなかったのです。
  そこでイエス様は「わたし以上に大事にしているもの、手離せない思いを捨て、神の国を宣べ伝えるという、あなたに与えられた使命を第一としなさい」と仰いました。
③最後まで従いぬくこと
  三人目の人は「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください」と言いました。 この人はイエス様に従うことを願いつつも、途中で諦めてしまいそうになっていました。そこでイエス様は彼に「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」と仰いました。最後までわたしに従ってきなさいとイエス様は仰ったのです。

願い
 
イエス様は私たちにも「わたしに従う覚悟を持ち、主から与えられた使命を第一として、最後までわたしに従いぬきなさい」と仰っておられます。どうか、イエス様が主のみこころに従われたように、私たちもイエス様に従っていくことができますように。 


―今週のみことば―

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、 ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。 へブル人への手紙12章2節 


5月19日

聖書箇所:ルカの福音書9章51節から62節
説教題:「ただイエス様を見て」


テーマ ~私たちそれぞれに与えられている御霊の賜物~
 1.聖霊、主、神である三位一体の神が(4~6節)
  御霊の賜物についてパウロが語ったことはまず「違い」です。一人ひとりは聖霊によって照らされ、救われた者です。しかし、賜物はいろいろあります。奉仕も、働きもそれぞれに違いがあるのだとパウロは言うのです。
  しかし続けて語られていることは、それぞれに違いがあっても、同じ主によって与えられ、成し遂げられるものであるということです。私たちに賜物を与え、賜物を活かして奉仕させ、その奉仕を通してみわざを成し遂げてくださるというこの一連の働きは、聖霊、主、神という、三位一体の神様がなしてくださることなのです。

2.私たちが互いに成長しあうため(7~10節)
  続けてパウロは、私たち一人ひとりに、異なった賜物が与えられているのは「皆の益となるため」なのだと言います。
  実に様々な賜物がありますが、一つ一つを見ていくときに、これらの賜物のすべてが主のみわざであり、主の栄光のためのものであるということに気づかされます。それは自分のためではなく、互いの成長のためであり、主の栄光を現わすためのものなのです。

3.主のみこころに従ってそれぞれに(11節)
  最後に改めてパウロは「これらすべてのことを『一つの』そして『同じ』御霊がなしてくださるのです」と言います。私たちそれぞれに異なった賜物が与えられています。しかしそれは一つの御霊、そして同じ御霊の働きによるのです。私たちが互いに成長し、主の栄光を現わすため、主のみこころに従って私たち一人ひとりに最も必要な賜物を、聖霊はその時に応じて与えてくださるのです。

願い
  三位一体の神様が私たち一人ひとりに賜物を与え、奉仕させ、みわざのために働いてくださっていることに感謝しましょう。そして、この御霊の賜物が、私たちが互いに成長しあうため、主の栄光を現わすために与えられていることを覚えたいと思います。

どうか、私たち一人ひとりが、それぞれに与えられている賜物を用いて、主のために仕えることができますように。 


―今週のみことば―

同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのまま に、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。コリント人への手紙第一12章11節 


5月26日

聖書箇所:詩篇33篇1節から22節
説教題:「主を待ち望む」

テーマ ~日々主に拠り頼み、主を待ち望む~
1.主こそ賛美され、恐れられる方(1~11節)
  主の恵みによって救われ、義とされた私たち一人ひとりに、この詩篇の作者は「主を喜び歌え」と呼びかけます。主の恵みで地は満ちています。主はこの世界を創造し、今も支え続けておられるお方である主の恵みの内に私たちは生かされています。だからこそ、私たちは主を賛美するのです。
  また主を賛美するのと同時に、「主を恐れよ」と語られています。主を恐れるのは、主がすべてを統べ治めておられるお方だからです。私たちの歩みのすべてが主の御手の中にあり、主のご計画こそ、とこしえからとこしえまで立ち続けます。このことを心から知る時に、私たちは主に対する恐れを抱くのです。

2.主を神とし、神の民とされている者の幸い(12~19節)
  このようなお方である主を「真の神様」と知らされ、告白できる幸い。神様に選ばれ、神の民とされていることの幸いが続けて語られています。
  主は私たちの心を形造られたお方であり、私たちの一挙手一投足を見て、理解してくださるお方です。そんな主の目は、主を恐れる者に注がれます。そして主は私たち一人ひとりを見ていてくださり、苦しみの時に手を差し伸ばしてくださるお方なのです。

3.主に拠り頼み、主を待ち望む(20~22節)
  「私たちのたましいは主を待ち望む」と詩篇の作者は言います。それは主が私たちを見続け、守ってくださる方、また私たちに手を伸ばし、私たちを救ってくださる方だからです。まことに私たちの心は主を喜びます。主の聖なる御名、主ご自身にこそ、私たちは拠り頼みます。

願い
  主こそ、賛美されるべき方、また恐れられるべき方です。そんな主を神とし、また神の子とされることの幸いを覚えたいと思います。

  どうかこれからも主に拠り頼んで歩んでいくことができますように。そしてどうか真の救い主である主ご自身が、私たちに恵みを与えてくださいますように。


 ―今週のみことば―
 私たちのたましいはを待ち望む。主は私たちの助け 私たちの盾。まことに 私たちの心は主を喜び 私たちは聖なる御名に拠り頼む。よ あなたの恵みが 私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望むときに。詩篇33篇20~22節 

2024年6月

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6月2日

聖書箇所:ルカの福音書10章1節から16節
説教題:「主による派遣」

テーマ ~主のみわざである福音宣教の働きに仕える~
 1.主の収穫の働きに弟子たちを遣わされたイエス様(1~2節)
  イエス様は、弟子たち一人ひとりを選び、名を呼んで福音宣教の働きへと遣わされました。このとき、72人もの弟子たちが遣わされました。ところがイエス様は、「働き手は少ない」と仰いました。それほどまでに収穫は多いとイエス様は仰るのです。
  このようにイエス様が仰ったのは、主こそが収穫の主だからです。この収穫は主のものであり、働き手を送ってくださるのもまた主です。このことを通して弟子たちは、一人ひとりが主によって遣わされ、主のみわざをともに担わせていただくのだということを覚えさせられたのです。

2.主に拠り頼む中で進められる福音宣教の働き(3~12節)
  「福音宣教の働きが主のものであることを覚え、ただただ主に拠り頼みなさい」と教えるために、イエス様は弟子たちに何も持って行ってはならないと命じられました。
  続けてイエス様は「どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい」と仰いました。福音はすべての人に開かれています。ですから私たちは誰に対しても神様との関係の回復という本当の平和があるようにと願うのです。
  さらにイエス様は「その家にとどまりなさい」と仰いました。福音への応答は人それぞれです。しかし、そのことに左右されずに、遣わされたそのところにとどまりなさいとイエス様は教えられたのです。
  そして誰に対しても福音を宣べ伝え続けなさいとイエス様は仰いました。

3.確信をもって主を証しする(13~16節)
  残念ながらすべての人がイエス様を信じ救われるわけではありません。しかし救いは主のものであり、主ご自身が救ってくださいます。ですから私たちは確信をもって、主に拠り頼みつつ証しし続けていくのです。

考えよう

  福音宣教の働きは、主ご自身の働きであり、私たち一人ひとりを主は遣わしてくださっています。ですから私たちはただただ主に拠り頼みつつ、主を証しし続けていきましょう。


 ―今週のみことば―
 そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、 ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。ルカの福音書10章2節 


6月9日

聖書箇所:ルカの福音書10章17節から24節
説教題:「真の主を知らされている幸い」

テーマ ~真の主を知らされている幸い~
1.悪霊さえも服従することを喜んだ弟子たち(17節)
  主のみわざのため、福音宣教へと遣わされた72人が、喜んで帰ってきました。彼らが喜んでいたのは「悪霊どもでさえも、自分たちに従う」ということでした。
 「イエス様が悪霊に命じたとき、悪霊はイエス様に従って出て行った。それと同じように、自分たちにも悪霊は従うのだ」と弟子たちはうれしくなり、喜んだのです。

2.「救いに与っていることこそ幸いなことだ」と教えられたイエス様(18~22節)
  そんな弟子たちに、イエス様はまず「確かにわたしはあなたがたに、悪霊に打ち勝つ権威を与えた」と仰いました。
  ところが、イエス様は続けて「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と仰いました。救われていることこそ最も幸いなことであり、このことをこそ喜びなさいとイエス様は仰ったのです。
  そして聖霊によって喜びにあふれたイエス様は、父なる神様をほめたたえられました。それは救いを与えてくださったのが神様だからです。救いの良い知らせを明らかにしてくださったのが神様のみこころであったからです。そのすばらしさのゆえに、イエス様は父なる神様をほめたたえられました。

3.預言者や王たちが見たい、聞きたいと願ったほどの幸い(23~24節)
  さらにイエス様は弟子たちに、救いに与っていることがどれほどすばらしいことかを教えられました。この救いは、多くの預言者や王たちも待ち望んでいたことでした。人々がずっと待ち望み続けてきた救いが実現するまさにその歴史的瞬間に、弟子たちは立ち会っていたのです。

感謝

  私たちもまた、イエス様こそ真の救い主であると知らされ、救いに与った者です。この幸いを覚えて主に感謝しましょう。そして救いの喜びと感謝のうちに、主をほめたたえたいと願わされます。

―今週のみことば―
それからイエスは、弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。」ルカの福音書10章23~24節 


6月16日

聖書箇所:士師記8章29節から9章21節
説教題:「主を心にとめなかったことで」

テーマ~自分の思いではなく、主のみこころを第一とする~
 1.主を心に留めなかったイスラエルの人々(8章29~35節)
  「主があなたがたを治められます」と言ったギデオンは家に帰って来ました。彼には70人の子どもが与えられ、幸せな晩年を過ごしました。 その中にアビメレクという息子がいました。アビメレクとは「私の父は王」という意味です。ギデオンは父なる神様こそ真の王なのだと心から信じ、息子にこのような名を付けたのでしょう。
  しかしそんなギデオンが死ぬと、人々は元に戻ってしましました。人々は主を心に留めず、自分の願いを第一とする生き方をするようになってしまったのです。

2.自らの思いを第一としたアビメレクとシェケムの人々(9章1~5節)
  ギデオンの息子アビメレクは、自分こそ王になろうとします。「あなたがたの骨肉である私が王になったほうが都合がよいではないか」と彼はシェケムの人々をそそのかしたのです。そこには、主こそ王としたギデオンの信仰はありませんでした。
  シェケムの人々もまた、自分たちにとって都合の良いアビメレクを王としました。アビメレクとシェケムの人々は結託し、残ったギデオンの子どもたちを殺してしまいます。

3.主を第一としない者の悲惨な末路(6~21節)
  生き残ったギデオンの息子ヨタムは、アビメレクとシェケムの人々にたとえを語りました。それは木々が自分たちのために王を立てようと次々と木を訪ね回り、とうとう茨に王となってもらったという話しでした。それはシェケムの人々が自分たちに都合のよい王、アビメレクを立てた姿に重なります。
  ヨタムはさらに、主を第一とせず自分の願いを第一とした彼らが、やがて共倒れになると告げました。厳しいさばきの言葉ですが、ヨタムはこれらの言葉を告げる時、まず人々に「聞け。そうすれば、神はあなたがたに耳を傾けてくださる」と告げました。ヨタムが語った言葉は、主に立ち返れという招きでもあったのです。

考えよう

  私たちも、主が願っておられることよりも、自分の願いを優先してしまうことがないでしょうか。どうか私たちが自分のためにではなく、主のみこころのために生きていくことができますように。 


―今週のみことば―
イスラエルの子らは、周囲のすべての敵の手から救い出してくださった彼らの神、

主を、心に留めなかった。士師記8章34節 

 

6月23日

聖書箇所:ルカの福音書10章25節から37節
説教題:「隣人を愛する」

ーマ ~誰に対しても隣人となり、自分自身のように愛する~
1.神を愛し、人を愛するようにと命じられたイエス様(25~28節)
  ある律法の専門家が「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と尋ね、イエス様を試そうとしました。
  「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」と聞かれたイエス様に、彼は「『すべてをもって神様を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります」と答えました。
  それに対してイエス様は「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と仰いました。口で言って終わりではなく、神様が仰る通りに実行しなさいとイエス様は仰ったのです。

2.隣人となることをたとえを通して語られたイエス様(29~35節)
  ところが、律法の専門家は自分が正しいことを示そうとしました。彼は「私はすでに『自分にとっての』隣人を愛している」と思っていたのです。彼にとって隣人とは自分の同胞、愛すべき人たちのことでした。そんな彼に、イエス様はあるたとえを話されました。
  ある人が強盗に襲われて半殺しにされてしまいます。そこに祭司とレビ人が通りますが、彼らは強盗に襲われた人を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。同胞であるにも関わらず、祭司もレビ人も隣人を愛さなかったのです。
  ところがサマリア人は違いました。彼は強盗に襲われた人を見ると、心の底からかわいそうに思い介抱しました。まさに自分自身のように介抱しました。律法の専門家にとってサマリア人は到底愛することなどできない人でした。しかしサマリア人は目の前の苦しんでいる人を分け隔てなく愛しました。これこそ隣人を自分自身のように愛するということでした。

3.隣人となったサマリア人と同じようにしなさいと命じられたイエス様(36~37節)
  たとえを語られたイエス様は「だれが隣人になったと思いますか」と尋ねられました。誰であっても、分け隔てなく、隣人となり、自分自身のように愛することこそ、隣人を愛するということなのだとイエス様は仰るのです。そしてイエス様は重ねて「行きなさい。あなたも同じように行いなさい」と命じられました。

願い

  隣人を愛するということ。それは誰に対しても、分け隔てなく愛するということ、自分自身を愛するように愛するということです。どうか私たちも、誰に対しても隣人となることができますように。そして、自分自身のように愛することができますように。 

―今週のみことば―
この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも

行って、同じようにしなさい。」ルカの福音書10章36~37節 

2024年7月

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7月7日

聖書箇所:ルカの福音書10章38節から42節
説教題:「必要なことは一つ」

テーマ ~主のみもとに来て、みことばを聞くことこそ必要なただ一つのこと~
 1.イエス様を喜んで迎え入れたマルタとマリア(38~39節)
  一行が進んで行くうちに、イエス様はある村に入られました。すると、マルタという女性が、イエス様を家に迎え入れ歓迎しました。
  マルタには、マリアという姉妹がいました。彼女はイエス様の足元に座り、イエス様のことばを聞き続けていました。姉妹そろってイエス様を歓迎したのです。

2.イエス様に不満をぶつけたマルタ(40節)
  ところがしばらくすると、マルタがイエス様のみもとに来て不満をぶつけたのです。イエス様を歓迎したいと思った彼女は、一生懸命奉仕していました。しかしあれこれと気をとられているうちに、心が落ち着かなくなってしまったのです。
  彼女はイエス様に言いました。「主よ。私の姉妹が、みんなをもてなすために私だけを残しているのに、何もあなたには気にならないのですか」と。
  マルタは、一人で頑張っている自分をイエス様に認めてほしかったのかもしれません。またもしかすると、イエス様の話しを一心に聞くマリアをうらやむ思いもあったのかもしれません。

3.主のことばを聞くことこそ必要なことであると教えられたイエス様(41~42節)
  そんなマルタにイエス様は優しく語りかけ「必要なことは一つだけです」と仰いました。イエス様はマルタの奉仕を否定なさったわけではありません。しかし大事なことは一つだけなのだとイエス様は仰るのです。それは主のみもとに来て、みことばを聞くということです。マリアはこの良いただ一つのことを選びました。それゆえ「それが取り上げられることはありません」とイエス様は仰いました。
  「マリアは良いほうを選び取った。あなたも必要な一つのこと、わたしのもとに来て、みことばを聞きなさい」とイエス様はマルタを招かれたのです。

考えよう

  私たちもマルタのように、さまざまなことに気をとられ、必要なただ一つのことを見失ってしまうことがあるかもしれません。どうか私たちも、主のみもとに来て、みことばを聞くことを第一とすることができますように。 


―今週のみことば―
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」 ルカの福音書10章41~42節 


7月14日

聖書箇所:ルカの福音書11章1節から4節
説教題:「イエス様が教えてくださった祈り」

テーマ ~神様を知り、従うための祈り~
1.神様のことを「父」と呼ぶことができる幸い

  イエス様はまず弟子たちに、神様のことを「父よ」と呼んで祈り始めるようにと仰いました。罪赦された私たちは、神様の子どもとされています。この幸いを覚えて、親しみを込めて神様のことを「お父さん」と呼び祈りなさいとイエス様は仰いました。

2.神様を知り、みこころを知る
  続けてイエス様は、どんなことを祈ればいいのか、具体的に教えてくださいました。
  一つ目は「御名が聖なるものとされますように」です。こう祈るとき、神様を敬っていない自分に気づかされます。だからこそ私たちは、神様を他のものとは区別し、本当の神様として敬うことができますようにと祈るのです。
  二つ目は「御国が来ますように」です。この祈りを通して私たちは、すでに救われている恵みを覚え、まだ救われていない人たちのことを覚えて祈ります。そして神様のご支配が完成することを願うのです。
  三つ目は「私たちの日ごとの糧を、毎日与えてください」です。神様は私たちのその日その日の必要を与え続けてくださっているのです。またこの祈りは「私の」ではなく、「私たちの」と祈ります。「私たち」という神の家族のことを覚えて、私たちは祈ることができるのです。
  四つ目は「私たちの罪をお赦しください」です。私たちのすべての必要が、神様によって満たされているということを知るとき、私たちは安心して神様に罪の赦しを願うことができます。さらにこの祈りは「私たちも私たちに負い目のある人たちをみな赦します」と続きます。神様に赦されているというこの恵みを知るからこそ、私たちも赦すことができる、赦しますと決意することができるのです。
  五つ目は「私たちを試みにあわせないでください」です。試みにあうことで誘惑に負け、神様から離れないようにしてくださいという祈りです。この祈りはさらに積極的に言えば、試みの中で主のみこころに従っていくことができるようにという祈りです。

願い

 イエス様が教えてくださった祈り。それは私たちが神様のみこころを知り、従っていくためのものでした。どうか私たちが祈る祈りの一つひとつが、神様のみこころを知り、従うものになっていくことができますように。 


―今週のみことば―
私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。よ わが岩 わが贖い主よ。詩篇19篇14節 


7月21日

聖書箇所:士師記9章22節から57節
説教題:「悪に報いられる主」

 テーマ ~悪を正しくさばかれる方、主~
1.悪に報いるため、わざわいの霊を送られた主(22~24節)
  神様は、わざわいの霊をアビメレクとシェケムの人々の間に送られました。それは、主を第一とせず、自らが王となるために兄弟を殺したアビメレクと、自分たちの都合のためアビメレクに手を貸したシェケムの人々の悪に報いるためでした。

2.互いに滅んでいったシェケムの人々とアビメレク(25~55節)
  シェケムの人々は自分たちが立てた王アビメレクを裏切り、アビメレクをののしったり、略奪をし始めました。
  しかしこのことは、密告によってアビメレクの知るところとなりました。アビメレクは兵たちとともにシェケムの人々を攻め、打ち破りました。そればかりかアビメレクは、エル・ベリテの神殿に立てこもったシェケムの人々がいる地下室に火を放ち、焼き殺してしまいました。アビメレクは徹底的にシェケムの人々を打ったのです。
  勢いにのったアビメレクは、テベツの町でも同じようにやぐらに火をつけて滅ぼそうとしました。しかし今度はアビメレクが頭にひき臼をぶつけられ、死ぬこととなりました。
  こうして、主を第一とせず互いに利用しあったシェケムの人々とアビメレクは、ともに滅んでいきました。

3.正しくさばかれる主(56~57節)
  主を第一としなかったシェケムの人々とアビメレクの末路は、悲惨なものでした。この出来事は、アビメレクの手から生き残ったギデオンの息子ヨタムを通して神様が告げられたとおりのことでした。神様は悪に報いられるお方、正しくさばかれるお方なのです。

考えよう
  私たちは主の恵みのゆえに救われました。そんな私たちも時に誘惑に負け、罪に陥ってしまうことがあるでしょう。しかし、主は悪を正しくさばかれる方、悪に報いられる方であることを覚えたいと思います。どうか私たちが主の恵みの中を歩み続けることができますように。 


―今週のみことば―
ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳 しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。 ローマ人への手紙11章22節 


7月28日

聖書箇所:ルカの福音書15章11節から32節
説教題:「喜んで向か入れてくださる方」

~罪人である私たちを喜んで迎え入れてくださる方、主~
  イエス様は、父なる神様が私たちのことをどのように見ていてくださるのか、あるたとえを用いて語られました。

1.父親に背を向け、自分勝手に生きた息子(11~13節)
  ある人に、二人の息子がいました。あるとき、弟息子が父親に「財産を分けてください」と願いました。父親は息子たちに財産を分けてあげました。
  すると弟息子は、すぐに父親のところから出て行ってしまいました。自分の好きなように生きていけると、父親に背を向け、離れて行ってしまったのです。
  この弟息子の姿は、私たちが父なる神様に背を向け、自分勝手に生きる姿に重なります。

2.我に返り、自らの罪に気づいた息子(14~19節)
  放蕩した息子は、お金を使い果たし、食べる物にも困り始めました。息子は汚い豚の世話をすることになります。神様に背を向け、自分勝手に生きる末路は悲惨なものなのです。
  みじめな自分に向き合わされた息子は、父親に悪いことをしていたことに気づかされました。息子は自分の罪を認め、正直に父親に謝ることを決意します。

3.喜んで迎え入れてくれた父親(20~24節)
  息子は父のもとに向かいました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親が息子を見つけてかわいそうに思い、駈け寄って、首を抱き、口づけしました。父親は、息子が帰って来るのを今か今かと待っていたのです。
  心から謝る息子に対して、父親は指輪をはめさせ、良い衣を着せ、履き物をはかせました。自分に背を向けて離れて行った息子を、父親は喜んで迎え入れてくれたのです。

招き

  父親が息子のことを喜んで迎え入れてくれたのと同じように、神様は罪人である私たちが立ち返るのを、今か今かと待っていてくださるお方です。どうかあなたも、喜んで迎え入れてくださる方、主のもとに立ち返ることができますように。


―今週のみことば―
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家まで は遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を

抱き、口づけした。 ルカの福音書15章20節 


2024年8月

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8月4日

聖書箇所:ルカの福音書11章5節から13節
説教題:「みこころを求める者に与えられる聖霊」

テーマ ~祈りに応え、聖霊を与えてくださる主~
 1.たとえを通して、祈り続けるよう教えられたイエス様(5~10節)
  イエス様は、主のみこころを求める私たちのために、主が必ず助け手を与えてくださると教えてくださいました。
  私たちが友だちを真夜中に訪ねたら…とイエス様は仮定の話しをされました。本来であれば、いくら友だちとは言え、訪ねるには遅すぎる時間です。しかし旅の途中で寄ってくれたもう一人の友人のために、どうしても助けを必要としていたのです。
  友の家に行き、「友よ、パンを三つ貸してくれないか」とお願いしますが、案の定、友の返事は冷たいものでした。「面倒をかけないでほしい」と友は言います。
  しかし、続けてイエス様は「しつこさゆえなら、友は起き上がり、必要なものを何でも与えるでしょう」と仰いました。そしてイエス様は私たちに、だからこそ神様に祈り続けなさいと仰いました。
  薄情に思えるような友でも、しつこさのゆえに戸を開き、必要なものを与えてくれるではないか。それならなおさら、神様は必ず祈りに応えてくださる。だから、あきらめずに祈り続けなさいとイエス様は仰ったのです。

2.祈りに応え、聖霊を送ってくださる主(11~13節)
  さらにイエス様は、神様が私たちに聖霊を与えてくださるのだと仰いました。それは聖霊が私たちを照らし、主がどのようなお方であるのか教えてくださるから。主のみこころがなんであるのか、教えてくださるから。主に従わせてくださるからです。 この聖霊を主は私たちに与えてくださるのです。私たちが主に祈り続けるとき、主に求め、探し、たたくとき、主は必ず私たちの祈りに応え、聖霊を与えてくださるお方なのです。

願い

  主は主のみこころに従いたいと願う私たちの祈りに応え、聖霊を与えてくださるお方です。この聖霊は、私たちを助け、主のみこころを教え従わせてくださいます。私たちも聖霊の働きに期待し、主のみこころを求めて祈り続けていくことができますように。

―今週のみことば―
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを 与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者 たちに聖霊を与えてくださいます。」 ルカの福音書11章13節 


8月11日

聖書箇所:ヨハネの福音書6章35節から40節
説教題:「よみがえりの希望」

テーマ ~私たちを救うために来られたイエス様~
 1.ご自分がいのちのパンであると明らかにされたイエス様(35~36節)
 
イエス様は「わたしがいのちのパンです」と仰いました。「自分こそ救い主なのです」とイエス様は人々に明らかにされたのです。
  さらに続けてイエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と仰いました。わたしを救い主と信じる者は必ず救われるのだとイエス様は仰ったのです。
  しかしイエス様の奇蹟を期待した人々は、イエス様を救い主とは信じませんでした。

2.みこころを行うため、天から来られたイエス様(37~38節)
  それでもイエス様は人々を招き続けてくださいました。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」とイエス様は仰いました。救いを求めてイエス様のもとに来る人のことを、イエス様は決して追い返したりしないのです。
  それは、イエス様が自分の思いを行うためではなく、神様のみこころを行うために来られたからです。私たちを喜んで迎え入れてくださることが、神様のみこころなのです。

3.私たちを救うためイエス様を遣わしてくださった神様(39~40節)
  イエス様を遣わされた方、父なる神様のみこころ。それはイエス様に神様が与えてくださった者を一人として失わないこと、また終わりの日によみがえらせることです。罪人である私たち、神様のことを知らず、自分勝手に生きる私たちは本来滅びる者でした。 そんな滅びる者である私たちを神様は愛してくださいました。この神様のみこころに従って、私たちが永遠のいのちを持つため、終わりの日によみがえるためにイエス様は来てくださったのです。

願い

  イエス様は、私たちを救い、永遠のいのちを与え、よみがえらせるため、来てくださいました。私たちにはよみがえりの希望が与えられているのです。このことに心から感謝して、イエス様を自分の救い主と信じることができますように。 


―今週のみことば―
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。ヨハネの福音書6章40節 

 

8月18日

聖書箇所:ルカの福音書11章14節から28節
説教題:「幸いなのは」


テーマ ~神の国の到来を信じ、みことばを聞いて守る者に~
1.神の国の到来(17~20節)
  悪霊を追い出しておられたイエス様を信じず、批判する人々がいました。そんな人々に対してイエス様は、悪霊が悪霊を追い出すなどということはあり得ないということ、また人々も悪霊を追い出しているということから、批判が的外れなものだと指摘されました。
  そのうえでイエス様は、神の国の到来を宣言されました。「わたしが悪霊を追い出しているということ。それは神様の御力の現れに他ならないのだ。それは神の国があなたがたのもとに来ているということなのだ。心を頑なにするのではなく、わたしを受け入れなさい」とイエス様は仰ったのです。

2.イエス様に味方せず、ともに集めない者(21~26節)
  続けてイエス様は、神の国の到来の意味について語られました。世は悪魔の支配下にあります。しかし、真の支配者であるイエス様が来てくださり、勝利がもたらされました。そんなイエス様に味方しない者はイエス様に敵対する者であり、散らす者だとイエス様は仰いました。まさにこのことばの通り、人々はイエス様を端から認めず、受け入れませんでした。
  さらにイエス様は、イエス様とともにいず、ともに集めない者の悲惨な末路について語られました。イエス様の話しを聞き、受け入れても、その悪を捨てないなら、その人の最後はもっと悲惨なものになるとイエス様は仰ったのです。

3.神のことばを聞き、守るものこそ幸いな者(27~28節)
  最後にイエス様は幸いな者について語られました。幸いな者とは、「神のことばを聞いてそれを守る人たち」のことです。神の国の到来というすばらしい知らせを聞き、神様のことばを守る者こそ幸いな者なのです。

考えよう

  イエス様は私たちに、主のみことばに心から耳を傾けるように、そして聞くだけでなく守るようにと求めておられます。悪を捨て去り、主に従うことをこそ、主は求めておられるのです。どうか、私たちが神の国の到来を心から信じ、救われた者として人々に主を証しすることができますように。 


―今週のみことば―
しかし、イエスは言われた。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」ルカの福音書11章28節 

 

8月25日

聖書箇所:ルカの福音書11章29節から36節
説教題:「光が闇とならないように」


テーマ ~真の救い主イエス様に目を向け続ける~
1.イエス様が示されたしるしのすばらしさ(29~32節)
  人々はイエス様にしるしを求め、イエス様を救い主と信じようとしませんでした。それゆえイエス様は「この時代は悪い時代です」と仰いました。
  ではそんな人々にイエス様はしるしを示されなかったのかというと、そうではありません。イエス様は私たちの身代わりとなり、十字架に架かり死んでくださいました。そして三日目によみがえられました。これこそ、イエス様が真の救い主である確かな証拠、しるしです。
  しかしそれでも、人々はイエス様を受け入れず、信じようとしませんでした。そんな人々にイエス様は「わたしをよく見なさい。ソロモンの知恵にまさるもの、ヨナにまさるものではないか。わたしこそ真の救い主なのだ」と語りかけられました。

2.イエス様を見る私たちの目(33~36節)
  続けてイエス様は、なぜ彼らには光であるイエス様がわからなかったのか、その理由について語られました。それはイエス様を見る私たちの目、私たちの心が悪いからです。
  イエス様をすなおに受け入れる心であれば、健やかな状態であれば、光のすばらしさを知ることができます。そしてそのすばらしい光が私たちのからだを照らします。  しかし、もし私たちの目が暗ければ、心が頑なでイエス様を信頼せず受け入れることができなければ、せっかくのすばらしい光も暗いものとなってしまうのです。
  「ですから、光が自分のうちで闇にならないように気をつけなさい」とイエス様は仰いました。光を受け止めることができるよう、すなおな心で主に信頼するようにとイエス様は仰ったのです。

願い

  私たちの目は曇りやすいものであることを覚えます。私たちはすぐに不安になり、疑ってしまう者、光を見失ってしまう者です。だからこそ、イエス様を通して与えられている光、救いがいかにすばらしいものであるのかを覚え続けたいと思います。どうか私たちが、すばらしい光、救いという光を与えてくださった主に目を向け続けることができますように。 


―今週のみことば―
ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります。ルカの福音書11章35~36節 

2024年9月

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9月1日

聖書箇所:ルカの福音書11章37節から54節
説教題:「忠告に耳を傾けることの難しさ」

テーマ ~主のみこころに従っているか、自らの歩みを省みる~
 1.イエス様を食事に招いたパリサイ人(37~41節)
  イエス様が食事の前にきよめの洗いをなさらなかったのを見てパリサイ人が驚きました。それに対してイエス様は「きよめの洗いをすることで、あなたがたは自分の外側をきよめている。しかしあなたがたの内側は自分の思いを満たしたいという強欲、邪悪な悪い思いでいっぱいだ」と仰いました。
  そしてイエス様は、外も内もきよくなるため、心の内の思いを自分のためではなく、施しに用いるようにと勧められました。

2.自らを省みるよう勧められたイエス様(42~52節)
  さらにイエス様はパリサイ人たちに「お前たちはわざわいだ」と語られました。それは彼らが自分の正しさを誇るためささげものをし、正義と神への愛をおろそかにしていたからです。また、彼らが人々から慕われることばかりを好んでいたからです。そして人々を神様から離れさせる彼らは、汚れた墓のようだとイエス様は仰いました。
  このように仰るイエス様に対し、「少し言い過ぎではないですか」とそこにいた律法の専門家がたしなめました。
  しかし、そんな律法の専門家に対しても、イエス様は「わざわいだ」と語られました。それは彼らが人々には律法を守るようにと教えながら自分たちは人々を助けず、自分も守らなかったからです。また彼らが預言者に優る方、イエス様を受け入れないどころか、殺そうとしたからです。さらに彼らは、人々がイエス様を信じるのも妨げていました。
  神様のみこころに逆らい、人々を神様から離していた彼らのことをイエス様は「わざわいだ」と厳しいことばで批判なさったのです。

3.忠告を聞き入れるどころか、反発した人々(53~54節)
  イエス様の語られたことばを聞いたパリサイ人たち、律法の専門家たちは、指摘なさったイエス様に敵意を抱き、いいがかりをつけようと狙いました。彼らはイエス様の忠告に耳を傾けず、心を閉ざしていきました。彼らはどこまでも頑なだったのです。

考えよう

  私たちの歩みは、主のみこころに従い、主に喜ばれるものでしょうか。人々に主を証しする歩みを私たちはしているでしょうか。どうか、私たちの歩みが、主のみこころに叶ったものとなることができますように。

―今週のみことば―
私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。
よ わが岩 わが贖い主よ。 詩篇19篇14節 
 

9月8日

聖書箇所:ルカの福音書12章1節から12節
説教題:「主を恐れる」


  これから人々に福音を宣べ伝えていく働きを担う弟子たちにむかってイエス様は、福音を宣べ伝えるために必要なことを教えられました。

テーマ ~福音宣教の働きに必要なこと~
 1.自らも偽善に陥らないように気をつける(1~3節)
  まずイエス様は「パリサイ人の偽善に気をつけなさい」と仰いました。パリサイ人たちは自らを誇るため、熱心にきまりを守っていました。つまり彼らは神様の目にどうかではなく、人からどう見られているかを気にしていたのです。
  しかし、そんな偽善は必ず明らかになるときが来るのだとイエス様は続けて仰いました。だからこそ「あなたがた自身、偽善に陥らないように気をつけなさい」とイエス様は仰るのです。

2.全知全能の主を恐れる(4~7節)
   続けてイエス様は「恐れなければならない方をあなたがたに教えてあげましょう」と仰いました。私たちが偽善に陥ってしまうのは、本当に恐れるべき方を恐れていないからだとイエス様は仰るのです。そして、本当に恐れるべき方はただお一人だけ、神様こそ恐れなければならない方なのだとイエス様は仰いました。
  神様は、罪人をゲヘナに投げ込む権威をお持ちのお方です。そして同時に神様は、罪人である私たちのすべてをご存知のうえで愛してくださるお方です。だからあなたがたは、神様を恐れ敬う心をもって福音を宣べ伝えなさいとイエス様は仰るのです。

3.聖霊の働きにより頼む(8~12節)
  最後にイエス様は、聖霊の働きにより頼み、証しし続けていくようにと仰いました。私たちを通して主ご自身が福音を宣べ伝えてくださるのです。

考えよう 
  イエス様は私たちに、偽善に陥らないよう自らを吟味し、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方、私のことを最も知っておられる方主がともにいてくださることを覚えて主を恐れ敬い、聖霊により頼んで主を証ししていくようにと励ましておられます。

  どうか私たち一人ひとりが主に信頼し、人々に証しし続けていくことができますように。


―今週のみことば―
また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。ルカの福音書12章11~12節


9月15日

聖書箇所:詩篇71篇16~21節
説教題:「主とともに歩む」


テーマ ~これまでも、これからも主とともに歩む~
1.主だけを覚えて(16節)
  試練の中にあったであろうこの詩篇の作者は「あなたとともに歩んでいきます。主であるあなたから離れずに私は行きます」と告白しました。
  それは彼が自分の歩みを振り返り、主が自分を救ってくださったことを思い出したからでしょう。続けて彼は「あなたの義を、ただあなただけを覚えていきます」と言いました。「罪人である私を救ってくださったあなたの義。あなたご自身を覚えます。そしてあなたをこそ、私は宣べ伝えます」と彼は告白したのです。

2.主のみわざを告げ知らせる(17~19節)
   続けて詩篇の作者は主のみわざを語りました。「あなたは若いころから私を教えてくださいました」と。「主は生涯に渡って私とともにいて、私を教え導いてくださったお方です」と。
  「だからこそ、私は今なお主を告げ知らせています。これまでも、これからも。たとえ年老いたとしても、私はなおもあなたの力、御腕のわざである力を告げ知らせます。来る者すべてにあなたの力を告げ知らせたいのです」と作者は願いました。 試練の中にあっても、彼がこのように力強く願うのは、主のみわざのすばらしさを、彼が知らされたからです。救いというすばらしい主のみわざを知るからこそ、詩篇の作者も生涯をかけて主をほめたたえたい、人々に伝えたいと願ったのです。

3.主にのみ希望を抱いて(20~21節)
  苦難の中にあった彼は、すべてのことが主の御手の中にあることを覚え、救いを求めました。また慰めを与えてくださる主に信頼していきたいと願いました。

考えよう
  一人ひとり、自らの歩みを振り返り、私の生涯に渡って、いつもともにいてくださる方、私の救いである主を覚え、主に感謝しましょう。試練のときにこそ、これまでの歩みを振り返り、主の恵みを数えたいと思います。

  そして主が私たちとともにいてくださることを信じ、最後まで主とともに歩み、主を証ししていきたいと願わされます。 

―今週のみことば―
あなたは私を多くの苦難とわざわいとに あわせられましたが  私を再び生き返らせ 地の深みから 再び引き上げてくださいます。  あなたが私の偉大さを増し 振り向いて私を慰めてくださいますように。 詩篇71篇20~21節 


9月22日

聖書箇所:ルカの福音書19章1~10節
説教題:「失われた者を捜して救うために」 


テーマ ~私たちを捜して救うために来られたイエス様~
 1.心の飢え渇きを覚え、イエス様に会おうとしたザアカイ(1~4節)
  ザアカイは人々から税を集める人々のリーダーであり、金持ちでした。彼は社会的にも経済的にも、大成功した人だったのです。
  しかし一方で彼の心の中には満たされない思い、飢え渇きがありました。人々を支配していたローマ帝国に協力し、余分にお金を取り立てていた取税人のかしらであるザアカイのことを、人々は嫌い、罪人と呼んでいました。  心の飢え渇きを覚え、救いを求めていたザアカイは、イエス様を見ようとしました。

2.イエス様に出会い変えられたザアカイ(5~8節)
   そんなザアカイのもとに、イエス様が来られます。イエス様はザアカイに目を留め、名前を呼んで招いてくださいました。さらにイエス様は「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしてある」と仰いました。イエス様はあなたの友となろうと仰ったのです。
  「イエス様は、罪人と呼ばれるような私に目を留め、名前を呼んでくださるお方なのか。私の友となってくださる方なのか。私が求めていた本当の救いがここにはある。イエス様こそ、真の救い主なのだ」と気づかされたザアカイは、イエス様のことを主と告白しました。

3.救いの到来を告げてくださったイエス様(9~10節)
  そんなザアカイに対し、イエス様は「今日、救いがこの家に来ました」と仰いました。救いの到来をイエス様は告げてくださったのです。
  続けてイエス様は、ご自分が失われた者を捜して救うために来たのだと仰いました。ザアカイだけではありません。失われた者である私たちを救うため、イエス様は十字架に架かってくださいました。

招き
  真の救い主、イエス様はあなたのことも捜しておられます。あなたの名前を呼び、わたしのもとに来なさいと捜しておられるのです。あなたを救うため、イエス様は十字架にまで架かってくださいました。

  どうか今あなたも、イエス様を真の救い主と信じることができますように。 

 

―今週のみことば―
イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」ルカの福音書19章9~10節 

9月29日

聖書箇所:士師記10章1~16節
説教題:「失われた者を捜して救うために」


テーマ ~あわれみ深い主~
 1.イスラエルの人々を救うため、士師を立て続けてくださった主(1~5節)
  主のみこころに従わず、私利私欲のため互いに利用しあったアビメレクとシェケムの人々の末路は悲惨なものでした。
  それでも、主はイスラエルの人々を救うため、士師を立て続けてくださいました。人々が主の目に悪であることを行わないよう、士師は人々をさばき、導いたのです。
  実に45年もの間、イスラエルは平和でした。

2.再び主の目に悪であることを行った人々(6~10節)
  ところが、士師が死ぬと人々は再び主の目に悪であることを行いました。人々は神と名のつくあらゆるものに仕え、真の神である主を捨ててしまったのです。
  そんな人々に対して主の怒りが燃え上がりました。人々はペリシテ人やアンモン人に打ち破られてしまいます。しかも最初はヨルダン川の向こう、アンモン人の地にいる人々が虐げられましたが、さらに彼らはヨルダン川を渡って、ユダやベニヤミン、エフライムの人々のところにまで攻めてきました。
  苦境に立たされて初めて、イスラエルの人々は「私たちは罪を犯しました」と自分たちの罪を認め、主に叫び求めました。

3.人々が苦しむ姿を見てあわれんでくださった主(11~16節)
  しかし、主はイスラエルの人々に「再びあなたがたを救うことはない」と語られました。主を捨てるということがどれほど悪いことなのか、主は人々に教えようとされたのです。
  苦しみから助けてほしいと、人々は偶像を捨て主に仕えました。すると主は人々が苦しむ姿を見て、あわれんでくださいました。

感謝

  何度も何度も主の目に悪であることを行うイスラエルの人々のことさえも、主はあわれんでくださいました。それと同じように、何度私たちがくじけても、私たちが主から離れそうになっても、主は私たちを見放さないお方です。私たちが主に立ち返るとき、主は私たちをあわれみ、救い出してくださるお方なのです。
  私たちをあわれんでくださる方、主にこそ私たちも拠り頼んでいきましょう。 


―今週のみことば―
彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。士師記10章16節 

2024年10月

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10月6日

聖書箇所:ルカの福音書12章13節から21節
説教題:「神に対して富むとは」

テーマ ~私たちにいのちを与えてくださっている主に目を向け続ける~
1.貪欲に陥っていた一人の人(13~15節)
  一人の人がイエス様に「兄弟に、私と遺産を分けるように言ってください」と願いました。人々はイエス様のことを真の救い主としてではなく、自分たちに都合の良いリーダーだと思っていたのです。
  そんな彼にイエス様は「わたしは裁判官や調停人ではありません」と仰いました。そしてさらに「あらゆる貪欲に気をつけなさい。いのちは財産にあるのではないからです」と人々に話されました。いのちは自分で所有することのできるものではない。貪欲に陥るのではなく、真のいのちのために、もっと目を向けるべきことがあるのだとイエス様は仰るのです。
  そこでイエス様は、人々にあるたとえを話されました。

2.イエス様が語られた、ある金持ちのたとえ(16~21節)
 ①神様から目を逸らし、自分のことばかり考えていた金持ち
  ある金持ちの畑が豊作でした。すると彼は「どうしよう」と考え込みます。彼はすでに倉を持っていましたが、それでは足りないと考えたのです。そこで彼はもっと大きな倉を自分のために建てることにしました。安心した彼は「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」と言いました。
  この金持ちは、主の恵みのうちに自分が歩んでいること、収穫も主が与えてくださっていることを忘れ、主に感謝しませんでした。また彼は物によって自分のたましいに平安が与えられると考えていたのです。
②いのちは神様が与えてくださるもの
  そんな彼に、神様が仰いました。「愚か者、おまえのたましいは今夜おまえから取り去られる」と。いのちを握っておられる方は神様であって、神様に対して富まない者の末路は悲惨なものでした。
  このたとえを通してイエス様は、いのちは主が与えてくださるものであることを覚え、主にこそ目を向けるようにと教えられたのです。

考えよう
  私たちも、主の恵みを忘れ、貪欲に陥りやすい者であることを覚えます。しかし主はいつも私たちに必要なものを与えてくださるお方、私たちにいのちを与えてくださるお方です。

  どうか日々主の恵みを覚え、主にこそ目を向け続けることができますように。 


―今週のみことば―
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」ルカの福音書12章15節


10月13日

聖書箇所:ルカの福音書12章22節から32節
説教題:「神様の御手の中にある平安を覚えて」

テーマ ~いつも私たちを支え、よくしてくださる方、主を覚え、信頼する~
 1.いつも私たちを支え、よくしてくださる方を覚えなさい(22~28節)
  イエス様は弟子たちに「何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい」と仰いました。なぜなら神様が私たちのことをいつも支えてくださっているからです。
  「神様は、将来のために蓄えない烏さえも養っていてくださいます。また、炉で燃やされてしまう草花さえも、神様はきれいに装ってくださいます。それならなおのこと、神様は私たちによくしてくださり、支えてくださるのです」とイエス様は仰るのです。

2.真の神、主を覚え、思い煩うのをやめなさい(29~30節)
 
それゆえ「思い煩うことをやめなさい」とイエス様は仰いました。私たちは様々なことで思い煩い、主を見失ってしまう者です。そんな私たちにイエス様は「あなたがたの父である真の神様がともにいてくださること、支えていてくださることを覚えなさい」と言って繰り返し励ましてくださるのです。

3.御国を求め、主に喜ばれる歩みをしなさい(31~34節)
 
さらにイエス様は「むしろあなたがたは御国を求めなさい」と仰いました。
  「御国」とは神様のご支配のことです。様々なことに心を奪われるのではなく、神様にご支配していただくことで、私たちは本当の平安が与えられるのです。
  またイエス様は「天にこそ宝を積みなさい」と仰いました。この地上での歩みはいずれ終わりを迎えます。しかし天の御国での歩みは永遠のものです。永遠に朽ち果てないものに、主にこそ目を向けて歩むようにとイエス様は仰るのです。

願い 
  いろいろなことで思い煩い、主から目を離してしまう私たちに、イエス様は「思い煩うのをやめなさい。主がともにいてくださることを覚えなさい。そして御国を求めて主に従いなさい」と語りかけておられます。

  どうか私たちがただともにいて支えてくださる主を覚え、主に信頼して歩むことができますように。 


―今週のみことば―
むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。ルカの福音書12章31~32節 


10月20日

聖書箇所:士師記10章17節から11章11節
説教題:「主によって立てられた」

  主を捨て、偶像に仕えた人々をも主はあわれみ、もう一度士師を立ててくださいました。
テーマ ~私たちの信仰を喜んでくださる主に信頼する~
1.人々に蔑まれ、見捨てられたエフタ(11章1~3節)
  主が立ててくださったのはギルアデ人エフタでした。彼は誰もが認める勇士でした。しかしそんなエフタのことを人々は蔑んでいました。なぜなら彼は「遊女の子」だったからです。うわべを見て、人々はエフタを蔑んでいたのです。
  さらにエフタの家の者も彼のことを疎んで、彼を追い出しました。エフタのことを蔑んでいた町の人々も、エフタを見捨て、助けようとしませんでした。

2.自分たちの都合から、エフタに戻って来てほしいと願った人々(4~8節)
  それからしばらくした時のこと。アンモン人がイスラエルの人々に対して戦争を仕掛けてきました。
  すると、ギルアデの長老たちがエフタのもとにやって来ました。エフタのことを見捨てたのにも関わらず、彼らは自分たちの都合でエフタを連れ戻そうとしたのです。
  長老たちは「私たちがあなたを見捨てたこと、それが間違いだったと気づいた。だから、今私たちはあなたの元に戻って来たのだ」と言いました。そして続けて「アンモン人と戦って、私たちギルアデの住民すべてのかしらになってください」と言いました。人々の願いはあまりに図々しく、身勝手なものでした。

3.主によって立てられることを願ったエフタ(9~11節)
  人々の身勝手な願いに対するエフタの答え。それは「主が勝たせてくださったなら、あなたがたのかしらとなろう」というものでした。
  エフタは、人々に対して怒るのでもなく、乗せられるのでもなく、主に従うことを第一としました。 主を第一とする信仰。このことのゆえにエフタは士師として選ばれたのです。
  主はうわべではなく、人の心を見るお方です。主はエフタの心、主を第一とする信仰を見ておられ、エフタを士師として立ててくださいました。

願い

  神様は、私たち一人ひとりのことを見捨てず、その信仰を喜び、ご用のために用いてくださるお方です。どうか今私たちもただただ主に信頼して歩んでいくことができますように。


―今週のみことば―
人はうわべを見るが、は心を見る。サムエル記第一16章7節後半 

2024年11月

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11月3日

聖書箇所:ルカの福音書12章35節から53節
説教題:「人の子の到来に備える」

テーマ ~再臨を待ち望む~
  どのように再臨を待ち望んで歩めばよいのか、イエス様は教えてくださいました。
1.祝福の大きさを覚え、いつ来てもよいように(35~40節)
  主人がいつ帰って来てもよいように備えをし、目を覚ましているのを見てもらえるしもべは幸いだとイエス様は仰います。なぜならそのしもべには、主人の方が仕えてくれるという祝福が与えられるからです。それと同じように、いつ来てもよいように再臨に備え、待ち望む者のことを主は豊かに祝福してくださるのだとイエス様は仰いました。
  また私たちが最も油断している時に泥棒が来るのと同じように、人の子であるイエス様は思いがけない時に来られます。それゆえ、イエス様がいつ来てもよいように備えをしなさいとイエス様は仰いました。

2.忠実で賢い管理人のように(41~48節)
  ところがイエス様の話しを聞いたペテロの反応はまるで他人事のようでした。そこでイエス様は改めて忠実で賢い管理人について語られました。
  主人の思いを知り、みこころに従った管理人への報いは大きいものでした。しかし一方で、主人の思いではなく自分の好き勝手にした管理人への報いは厳しいものでした。それと同じように、主が再び来られる時、私たちも主のみこころに従って歩んできたかどうかが問われるのです。

3.イエス様の死を告げ知らせて(49~53節)
  では、私たちは具体的にどのように備えをすればよいのでしょうか。それは人々にイエス様の死を告げ知らせることによってです。
  イエス様は最後にご自分が来られた目的について語られました。イエス様は神様のみこころに従い、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださるために来られました。イエス様の死によって、私たちは完全に罪赦されたのです。これこそ、私たちが人々に告げ知らせること、再臨に備えるということなのです。

願い 
  人々に主の死を告げ知らせること、イエス様が私たちの罪を完全に取り除き、赦すために死んでくださったことを証し続けていくことこそ、再臨への備えです。

みこころに従い、再臨を待ち望む者への報いは大きいということを覚えつつ、私たちも人々にイエス様の死を証し続けていくことができますように。 


―今週のみことば―
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで

主の死を告げ知らせるのです。コリント人への手紙第一11章26節 


11月10日

聖書箇所:ルカの福音書12章54節から59節
説教題:「時代を見分ける」

テーマ ~唯一の仲介者、イエス様を通して与えられる滅びからの解放に感謝する~
1.今が、救い主が到来した恵みの時であることを見分ける(54~56節)
  人々は天候の変化を敏感に感じ取り、備えをしました。しかしそんな人々にイエス様は「偽善者たちよ」と仰いました。「あなたがたが天気を見分ける知恵、それは見事だ。しかしそれほどまでの知恵がありながら、どうしてこの時代を見分けることができないのか」とイエス様は仰います。
  今の時代は、真の救い主イエス様の到来によって救いがもたらされた恵みの時です。それにも関わらず人々は、イエス様こそ救い主であると信じませんでした。
  しかしイエス様は人々を招き続けてくださいました。「今この時が、救いがもたらされた恵みの時であることを知りなさい。そしてわたしを救い主と信じなさい」。こうイエス様は人々を招いてくださったのです。

2.イエス様こそ滅びから解放してくださる真の救い主(57~59節)
  続けてイエス様は「何が正しいか、自分自身で判断しなさい」と仰いました。「真の救い主の到来によって、救いは今あなたの手の中にある。その救いを受け取るか、受け取らないか。あなた自身で判断しなさい。わたしこそ救い主であると信じ、救いを受け取りなさい。そして神様と和解しなさい」とイエス様は仰るのです。
  今の私たちの歩み、それは訴える者と一緒に役人のところに行く歩みのようだとイエス様は仰います。神様を知らずにいた私たちのその行きつく先は滅びです。しかしそんな私たちにも、神様と和解する希望が与えられています。神様と私たちの間をとりなしてくださる方、唯一の仲介者であるイエス様を通して救いが私たちには与えられているのです。

感謝

  今が、イエス様によって救いが与えられた恵みの時であること、やがて来るさばきから私たちを救うため、イエス様は死んでくださったことを覚えて感謝したいと思います。そして神様との関係を回復させてくださる方、唯一の仲介者であるイエス様が私たちとともにいてくださることを覚えて心から感謝したいと思います。 

 

―今週のみことば―
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。テモテへの手紙第一2章5~6節 
 

11月17日

聖書箇所:詩篇127篇1節から5節
説教題:「子どもは主の賜物」


テーマ ~子どもたちを通して与えられている神様からの祝福~
 1.神様によって支えられている私たちの歩み(1~2節)
  この詩篇の作者ソロモンは言います。「むなしい」と。家を建てる者の働きも、町を守る者の見張りも、早く起きること、遅く休むこと、労苦の糧を食べることも。「主がともにいてくださらなければ」、何もかもがむなしいと。
  しかし、神様がともにいてくださるとき、そこには豊かな祝福があります。すべてのものを主は与えてくださっている。このことを覚え、主に感謝しなさいとソロモンは言うのです。すべてのものが神様によって与えられ、日々の歩みが支えられているということを覚える時、私たちには平安が与えられます。「実に主は愛する者に眠りを与えてくださる」とある通りです。
  この平安は、私たちが自ら得るものではなく、主が与えてくださるものです。愛する者を主は祝福してくださり、安らかな眠りを、平安を与えてくださるのです。

2.子どもは主の賜物(3~5節)
  ソロモンは続けてその最も典型的な例として子どもについて語りました。子どもは主の賜物です。私たちは、子どもは自分のものという感覚に陥ってしまいがちです。しかし子どもとは、神様が私たちに相続地として与えてくださるプレゼントだと聖書は語ります。私たちの日々の歩みは、主によって支えられ、祝福されています。何よりも神様は私たちに子どもたちを与えてくださっているのです。
  そんな神様から与えられた子どもたちの姿が、勇士の手にある矢にたとえられています。勇士にとって矢は身を守るための必需品です。それと同じように、神様は子どもたちを通して私たちを祝福し、守っていてくださるのです。

感謝

  人々がこの詩篇の賛美を通して神様からの祝福を覚えたように、私たちも、日々の歩みが主によって支えられていることを覚えたいと思います。また神様は子どもたちを通して私たち一人ひとりを、家族を、教会を祝福してくださっていることを覚えたいと思います。そして神様に感謝しつつ、子どもたちの祝福をともに祈りたいと思います。 

 

―今週のみことば―
見よ 子どもたちはの賜物 胎の実は報酬。
若いときの子どもたちは 実に 勇士の手にある矢のようだ。
幸いなことよ 矢筒をその矢で満たしている人は。 

彼らは門で敵と論じるとき 恥を見ることがない。 詩篇127篇3~5節 


11月24日

聖書箇所:士師記11章12~28節
説教題:「主を証しする用意」


テーマ ~主のみことばに養われて、大胆に主の救いのみわざを証しする者へ~
1.奪った土地を返すよう主張したアンモン人の王(12~13節)
 
士師として立てられたエフタは、人々を苦しめていたアンモン人の王に「どうしてイスラエルを攻めるのか」と問いかけました。するとアンモン人の王は「その土地は、もともと自分たちのものだった。あなたがたは出て行き、奪った土地を返しなさい」と主張しました。この主張はエジプトを脱出し、約束の地を獲得したイスラエルの人々にとって、どのように返答したらよいかと困ってしまうものでした。

2.主に従い、主に信頼して、主のみわざを語ったエフタ(14~28節)
  しかしエフタはアンモン人の王にはっきりと「イスラエルはアンモン人の土地を奪ったりはしていない」とイスラエルの歴史から語りました。イスラエルの人々はアンモン人の土地を奪うどころか、むしろ慎重にアンモン人の国境を避け、主が与えてくださった土地を占領していたのです。
  エフタが語ったことは、主のみわざそのものでした。日々みことばに親しみ、主の恵みを覚えていたエフタは、神様がエジプトで苦しんでいたイスラエルの人々をどのように救い、導いてくださったのかということ、祝福してくださったのかということ、恵みを与えてくださったのかという、主の救いのみわざを大胆に証しすることができたのです。
  それゆえエフタはアンモン人の王を恐れずに「私たちは主が導いてくださるままに土地を獲得する。私たちはただ主に従う」と告白し、一切のことを主の御手にお委ねしました。

願い

  私たちもまた、主を証しするとき、相手がどんな風に思うだろうかと不安になったり、恐れてしまったりということがあるでしょう。せっかく話しても、なかなか受け入れてもらえない現実もあります。しかしそれでも、主を証しし続けていきたいと願わされます。日々主のみことばに養われ、励まされて、主を証しする者へとさせていただきたいと思います。
  そしてエフタが恐れずにはっきりと主のみわざを語ったように、私たちも主が語りなさいと言われることに従って、主に信頼して、真っすぐに、主の救いのみわざを証ししたいと願わされます。 

 

―今週のみことば―
たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。 ペテロの手紙第一3章14~15節 

2024年12月

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12月1日

聖書箇所:ヨハネの福音書1章1節から5節
説教題:「人の光」

テーマ ~私たちにいのちを与えるため来てくださった神の御子イエス様~
1.神の御子であるイエス様(1~2節)
  ヨハネは感動と喜びのうちに、イエス様がどのようなお方であるのか語りました。
  ことばであるイエス様は、初めから神様とともにおられた方、永遠に存在する方なのだとヨハネは言います。またイエス様は、神様とともに「あられる」方です。それはイエス様ご自身が神様であるということです。神様のことばによって世界は造られました。ですから、ことばであるイエス様は神様の御力の現れであり、神様なのです。

2.天地万物を造られたイエス様(3節)
  続けてヨハネは、ことばであるイエス様のみわざについて語りました。主のことばによって、天は造られました。天地万物、見えるものも見えないものも、すべてのものが、その息吹によって造られました。それはことばであるイエス様によって造られたということなのです。私たち一人ひとりもまた、ことばであるイエス様によって造られた存在であり、イエス様によって支えられているのです。

3.人の光であるイエス様(4~5節)
  私たち一人ひとりを造り、今も支えてくださっているお方、イエス様にはいのちがあります。このいのちとは、死んで終わりとなる命ではありません。永遠のいのちです。
  神様を知らず自分勝手に生きている私たちは、闇の中をただただ滅びへと向かって歩んでいるのです。イエス様は、そんな私たちにいのちを与えてくださる方です。それはまさに闇を照らすまことの光、人の光です。
  闇の中、滅びへと向かっている私たちを、光であるイエス様は救い、永遠のいのちを与えてくださったのです。

感謝
  初めに神とともにおられた方、私たちを造られた方、神の御子であるイエス様が、来てくださった!ヨハネはこの喜びを伝えてくれています。

  闇の中を歩んでいる私たちを救い、いのちを与えるために、神の御子イエス様が来てくださったことに感謝しつつ、イエス様をお迎えしましょう。


―今週のみことば―
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に 輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。ヨハネの福音書1章4~5節 

2023年4月

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4月2日

聖書箇所:ペテロの手紙第一2章24節から25節
説教題:「十字架の意味」

~私たちが義のために生きるため、十字架に架かられたイエス様~
1.イエス様の十字架での苦しみとその意味
 ①私の罪のために十字架で苦しみ死なれたイエス様(24節前半)
  「私の」罪を負って、イエス様は十字架に架かられました。イエス様の十字架での苦しみは、私の罪の身代わりとなって苦しまれたということなのです。
  イエス様は神の御子であるにも関わらず、自ら私の罪を負ってくださいました。そしてその身に釘を打たれ、十字架に架かるという想像を絶する痛みを味わってくださったのです。
 ②イエス様が死なれたのは、私が義のために生きるため(24節後半)
  続けてイエス様が十字架に架かられた目的が語られています。それは「私たちが罪を離れ、義のために生きる」ためでした。
  義のために生きるとは、神様のみこころに従って生きるということです。イエス様が私たちの身代わりとなって苦しんでくださったことで罪赦された私たちは、新しく生まれた者です。新しく生まれた者として罪を離れるだけでなく、神様のみこころに従って私たちが生きることを、主は願っておられるのです。

2.羊のようにさまよっていた私が、主のもとに帰ることができた(25節)
  イエス様が私の罪の身代わりとして死んでくださったことで、私たちは罪赦され、神様のもとに帰ることができました。神様に背を向け、さまよっていた羊のような私が、牧者であり、監督者ある神様のもとに戻ることができたのです。そこには神様が養ってくださる、神様が私のことを見張ってくださるという平安があります。

チャレンジ
  イエス様は、あなたの罪の身代わりとなって苦しみ、死んでくださいました。このことによって私たちは神様のもとに戻ることができたのです。
  どうかこの喜びのゆえに、罪を離れ、義のために生きることができますように。神様のみこころに従って歩むことができますように。



 ―今週のみことば―
   キリストは 自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。 それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。 その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

ペテロの手紙第一2章24節 



4月9日

聖書箇所:ローマ人への手紙4章25節
説教題:「私たちが義と認められるため」

テーマ ~イエス様を信じる信仰によって義と認められる~
 1.私たちの罪のゆえに死に渡されたイエス様
 
イエス様は私たちの「背きの罪のゆえに」死なれました。聖書は文字通りすべての人が罪を犯したのだと語っています。神様に背を向けて歩むことは罪であり、神様の目には、私たちは罪人なのです。
  そして神様は正しいお方であり、罪をそのまま見過ごされるお方ではありません。ですから本来私たちは、罪をさばかれ滅びる者でした。そんな私たちの背きの罪のゆえに、イエス様は死に渡されました。イエス様を死に渡されたのは神様です。ひとり子であるイエス様に私たちの罪を負わせ、死なせるほど神様は私たちのことを愛してくださったのです。

2.私たちが義と認められるためよみがえられたイエス様
 
イエス様は十字架に架かって死なれましたが、死んで終わりではありませんでした。イエス様は死に打ち勝ち、よみがえられました。イエス様がよみがえってくださったからこそ、私たちは確かに罪赦された、義と認められたと確信をもって信じることができます。 義と認められるとは、本来正しくない者が、正しいとされるということです。私たちが義と認められるのは、私たちが努力して、正しいとされるのではありません。ただただ神様の恵みによるものです。
  この神様の恵みを私たちはただ信じるだけです。イエス様が私の背きの罪を負って死んでくださった。それは神様の愛によることなのだ。そしてイエス様は私たちが義とされるためによみがえってくださったのだ。こう信じることによって私たちは救われます。私たちが救われる道は他にはありません。

チャレンジ
  イエス様がよみがえられたことで、あなたは確かに罪赦され、義と認められています。このことに感謝しましょう。

  そして、私たちが救われる唯一の道だということを人々に宣べ伝えていきましょう。イエス様の復活を覚えるイースターのこの時、イエス様を信じることで、あなたも救われるのですよと証しする者へとならせていただきたいと思います。 

  

 ―今週のみことば―
   主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、 私たちが義と認められるために、よみがえられました。

 ローマ人への手紙4章25節 


 

4月16日

聖書箇所:ルカの福音書4章42節から44節
説教題:「イエス様が遣わされた理由」
 

テーマ ~神様のみこころに従って福音を宣べ伝え続ける~
1.寂しい所に行き、静まりの時を持たれたイエス様
  一日中働かれ疲れもある中、イエス様は朝になると寂しいところに出て行かれました。イエス様は一人静まり、祈る時を持たれたのです。ご自分が何のために遣わされたのかという主のみこころを確認する時、原点に立ち返る時をイエス様は持たれました。
  イエス様はこの時、大活躍しておられました。順調そうに見える中で、神様のみこころよりも人々のうわさを気にしてしまうような誘惑を覚えられたのかもしれません。
  だからこそ、イエス様は寂しいところへと行かれ、静まり、神様に祈られたのでしょう。そして自分が遣わされた理由を改めて覚え、原点に立ち返り、神様のみこころに従われることを願われたのです。

2.イエス様を捜し回った人々と神様のみこころに従ったイエス様
  一方、人々はイエス様を捜し回りました。そして人々は、イエス様が「自分たちから」離れないように引き止めようとしました。人々がイエス様を引き止めようとしたのはあくまで「自分たちのため」だったのです。
  そんな人々に対してイエス様は「あなた方だけでなくすべての人々に、わたしは福音を宣べ伝えなければならないのだ」と仰いました。
  イエス様はご自分が神様によって遣わされていること、神様から託された使命があるということをしっかりと受け止めておられたのです。

3.福音を宣べ伝え続けたイエス様
 
イエス様は福音を宣べ伝え続けられました。これまでと同じように、ユダヤの諸会堂を回り、人々に福音を語り続けられたのです。

考えよう
  イエス様が神様のみこころを知るために静まり、祈られたように、私たちも主に祈りましょう。私たち一人ひとりが主によってそれぞれの場に遣わされている意味は何か、神様はあなたに何を期待しておられるのか、一人ひとりに与えられている使命に耳を傾けましょう。そして神様のみこころに従い、人々にイエス様のことを証しし続けていきましょう。



 ―今週のみことば―
  しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ 伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」

 ルカの福音書4章43節 


 

4月23日

聖書箇所:士師記6章11節から24節
説教題:「主は平安」

 

 ~私のことさえも用いてくださる主~
1.ミディアン人を恐れ、隠れていたギデオン(11節)
 
 人々に背信の罪をはっきりと告げつつも、主は苦しむ民のために士師を立てようとしてくださいました。
  主が士師として選ばれたのはギデオンでした。しかしこのギデオンは、人目を避けてこそこそとぶどうの踏み場で小麦を打っていた人物でした。とても勇士とは呼べないようなギデオンを、主は士師として召されたのです。

2.主に信頼できなかったギデオンと励まし続けてくださった主(12~23節)
  ギデオンに現れた主の使いは「主があなたとともにおられる」と告げました。主がともにいてくださるので、ギデオンは力ある勇士として立っていくことができると言ったのです。
  しかし主に励まされても、ギデオンは主に信頼しきれませんでした。自分の弱さばかりを見て、主がともにいてくださるのだということに目を向けることができなかったのです。  そんなギデオンを主は慈しみ、憐れんでくださいました。そして、わたしはあなたとともにいる、だから安心して良いのだと語りかけ続けてくださいました。

3.主がともにいてくださるという平安を知ったギデオン(24節)
 
 なかなか主に信頼できなかったギデオン。そんなギデオンも、主がともにいてくださるという平安を得ました。
 こんな弱々しい、力のない者である私のことさえも主は用いてくださるのだ。主に信頼し切れない私のことを主は憐れみ、待っていてくださるのだ。主が私とともにいてくださるのだという平安をギデオンは知ったのです。

チャレンジ
 
主は弱々しいギデオンとともにいてくださり、士師として用いてくださいました。
  主は私たちのことも用いてくださるお方です。主がともにおられる。この平安のうちに、主に従っていきたいと思います。どうかこのような私を主のご用のために用いてくださいと願い、一歩を踏み出しましょう。


 ―今週のみことば―
  すると、は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 士師記6章14節 

2023年5月

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5月7日

聖書箇所:ルカの福音書5章1節から11節
説教題:「罪深い者への招き」

 テーマ ~すべてを捨てて従うべきお方、イエス様~
 1.魚を捕るよう言われたイエス様とそのことばに信頼したシモン(1~5節)
  大勢の群衆が押し寄せて来たので、イエス様は舟から群衆を教えられました。そして話しを終えられたイエス様は、シモンに「深みに漕ぎ出して魚を捕りなさい」と言われました。 当時漁は夜に、しかも浅瀬で行われていました。ですからシモンも「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした」と答えました。 しかし、シモンはさらに「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」と言いました。普通に考えれば到底魚など捕まえられるはずがない。「でも」イエス様、あなたが仰るのでしたらやってみますと、シモンはイエス様のことばに信頼したのです。

2.イエス様こそ主だと知ったシモン・ペテロ(6~10節前半)
  イエス様のことばに信頼した結果、網が破れそうになるほどの魚が捕れました。それを見たシモン・ペテロは、イエス様の足元にひれ伏しました。そして「私から離れてください。私は罪深い人間ですから。主よ。」と言いました。 この言葉は、イエス様に本当に出会った者の素直な反応です。主であるイエス様を前にした時、私たちは自分の罪に気づかされます。そして、到底自分はイエス様の前に立つにふさわしくない者なのだと気づかされるのです。

3.すべてを捨ててイエス様に従った弟子たち(10節後半~11節)
 
 イエス様はペテロに「恐れることはない」と言われました。そして「今から後、あなたは人間を捕るようになる」と言われました。  このことばを聞いたペテロたちはすべてを捨ててイエス様に従いました。彼らはイエス様に出会い、イエス様こそ主だと心から知ったのです。

チャレンジ
  あなたも、イエス様を信じる一歩を踏み出しませんか。その一歩を主は待っておられます。イエス様を主と信じ受け入れる時、全く新しい人生が始まります。あなたもイエス様を信じ、新しい歩みを始めることができますように。 


 ―今週のみことば―
 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

 ルカの福音書5章11節 



5月14日

聖書箇所:ルカの福音書5章12節から16節
説教題:「お心一つで」

 テーマ ~ツァラアトをきよめることができるお方~
 1.お心一つでツァラアトをきよめられたイエス様(12~13節)
  イエス様がある町におられたときのこと、そこに全身ツァラアトに冒された人がいました。その人はイエス様を見ると「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」とお願いしました。
  ツァラアトは神様にしかきよめることのできないものでした。つまりツァラアトの人が言ったことは「あなたこそ主です」という信仰告白の言葉だったのです。 イエス様はツァラアトの人に自ら手を伸ばし触れ、言われました。「わたしの心だ。きよくなれ」と。するとすぐにツァラアトが消えました。イエス様はツァラアトさえもお心一つできよめることができるお方、主なのです。

2.人々への証のため定めを行うよう言われたイエス様と人々の反応(14~16節)
  ツァラアトがきよめられた人にイエス様は「だれにも話してはいけない」と言われました。そして「ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい」と命じられました。
  イエス様が命じられたことは、神様が教えられた通りのことでした。イエス様は、ツァラアトの人が神様の教えに従い、人々が神様の栄光を崇めることを願われたのです。
  しかしイエス様のうわさはますます広がり、大勢の群衆がイエス様のもとに集まってきました。うわさに聞くイエス様の話を聞き、自分の病を癒してもらうため集まって来たのです。  イエス様は寂しい所へと退かれました。そしてただ神様のみこころを求めて祈っておられました。

チャレンジ

  ツァラアトがきよめられる。それは神様にしかできないみわざです。ツァラアトの人が「あなたこそ主です。あなたが望まれるなら、私をきよめることができるのです」と告白したように、あなたもイエス様を主と信じることができますように。 


 ―今週のみことば―
 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。

ルカの福音書5章13節 


 

5月21日

聖書箇所:詩篇8篇1節~9節
説教題:「全地に渡り力に満ちた御名」

テーマ ~主を賛美する~
1.無力な者を通して明らかにされた主の御力(1~2節)
 
幼子たち、乳飲み子たちの口を通して主は御力を示されたとダビデは言います。当時、幼子や乳飲み子はとるに足りない者と思われていました。
  しかし、イエス様が来られたことによってこの詩篇が成就しました。イエス様がエルサレムに来られた際、子どもたちは「ダビデの子にホサナ」と言って主をほめたたえました。しかしイエス様のことをよく思わなかった人々は文句を言いました。それに対してイエス様は詩篇8篇を引用され、ご自分が神様の力を打ち立てるため、救いをもたらすために来られたのだということをお示しになりました(マタイ21:15-16)。まさに幼子や乳飲み子たちの口を通して主は御力を打ち立てられたのです。

2.私たちを顧みてくださった主(3~8節)
  私たちは自然を前にするとき、神様のみわざのすばらしさ、そのスケールの大きさに圧倒されます。それと同時に、自分の小ささを覚えます。そしてこんな小さい私たちのことを神様は心にとめ、罪による滅びから救われるようにと顧みてくださったのかと驚き感謝します。
  主に逆らい堕落した結果、人間は主が与えてくださった栄光を受けることができなくなってしまいました。そんな私たちのために、イエス様は来てくださり、死んでくださいました。私たち一人ひとりのためにイエス様は死んでくださったのです。

3.全地に渡って力に満ちている主の御名(9節)
  神様は私たち一人ひとりのことを顧み、罪による滅びから救ってくださった「私たちの主」です。だからこそ、私たちも主をほめたたえるのです。

賛美

  主の創造のみわざ、神様が造られた自然を見る時に、私たちは自分がいかに小さい者であるのかを知ります。そしてそんな小さい私のことを主は顧みてくださったのだということを知ります。だからこそ、私たちは主を賛美するのです。私たちを救ってくださった主をともに賛美しましょう! 


 ―今週のみことば―

よ 私たちの主よ  あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。
詩篇8篇9節 


 

5月28日

聖書箇所:使徒の働き2章37節から39節
説教題:「約束として与えられる聖霊」

テーマ ~神様が約束してくださった聖霊~
1.自分たちの罪に気づき、心を刺された人々(37節)
  イエス様を十字架に架けたのは、私たちだったのだ。そう気づかされた人々は心を刺されました。そして「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言いました。取り返しのつかないことを私はしてしまった。一体どうすればいいんだろうかと、人々は事の重大さに気づかされたのです。

2.悔い改め、バプテスマを受けるようにと勧めたペテロ(38節前半)
  そんな人々に対してペテロは「悔い改め」と「バプテスマ」を勧めました。
  悔い改めるとは、まず自分の罪を認め悔いるということです。そして向きを変え、以前の罪の生活を捨て、新しい生き方をしていくことが、悔い改めるということです。
  またバプテスマを受けるとは、今までの罪の中での歩みを捨て、イエス・キリストに従って歩んでいくことを公にするということです。
  このように悔い改め、バプテスマを受ける理由は「それぞれ罪を赦していただくため」です。主の前に悔い改めバプテスマを受けるとき、罪を赦していただくことができるのです。

3.すべての人に与えられている約束(38節後半~39節)
  この赦しにはしるしが伴いました。それは賜物としての聖霊を受けるということです。「賜物として」とあるように、聖霊は私たちが自ら獲得するものではなく、主が私たちに与えてくださるものです。
  そしてペテロは、このことが、神様が約束してくださったことなのだと言います。この約束は当時の人々だけに与えられたものではありません。今を生きる私たちにも、この約束は与えられています。主が召される人ならだれにでも、救いへと招かれ、応答する人々全員にこの約束は与えられているのです。

 感謝

  主は私たちを罪による滅びから救うためにイエス様を遣わしてくださいました。私たちが心から自分の罪を認め、悔い改めて新しく生きる決心をするとき、私たちにも聖霊は与えられるのです。この約束を与えてくださった主に感謝しましょう。 

 
 ―今週のみことば―
この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべて の人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。 
使徒の働き2章39節 

2023年6月

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6月4日

聖書箇所:ルカの福音書5章17節から26節
説教題:「罪を赦す権威」
 

 テーマ ~罪を赦す権威を持つお方、イエス様~
 1.イエス様のもとに連れて来られた中風の人と罪を赦されたイエス様(17~20節)
  ある日、中風の人がイエス様のもとに連れて来られました。この人は大勢の人がいたために、なんと屋根の瓦をはがして、床のままイエス様のもとにつり降ろされました。そこまでして中風の人はイエス様に会いたい、イエス様なら中風を癒すことができると信じていたのです。
  そんな彼らの信仰を見たイエス様は「友よ、あなたの罪は赦された」と言われました。  罪の赦しは病が癒されるより遥かにすばらしいことです。罪という私たちが抱える根本的な問題に対する解決をイエス様は宣言してくださったのです。

2.罪を赦す権威を持っておられることを示されたイエス様(21~25節)
  罪が赦されるというすばらしい出来事にも関わらず、律法学者たち、パリサイ人たちは心の中でぶつぶつとつぶやきました。「こいつは一体何様だ。神様を冒涜しているではないか。神様以外の誰に罪を赦すことができるだろうか」と。彼らはイエス様が神の御子であるということを信じていなかったのです。
  それに対してイエス様は言われました。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩きなさい』と言うのと、どちらの方が簡単か」と。このようにイエス様が問いかけられたのは、イエス様こそ罪を赦す権威を持つお方、神の御子だと彼らが知るためでした。そこで続けてイエス様は中風の人に「起きて歩け」と言われました。すると、中風の人はたちどころに癒されて、神様をあがめながら家に帰っていきました。
  イエス様はご自分に罪を赦す権威があることを、人々にわかるようにはっきりと示されたのです。

3.神様をあがめた人々(26節)
  中風の人が癒されるという出来事を見た人々は、そのすばらしさに圧倒されました。そして人々は、イエス様には罪を赦す権威があるのだということを知って神様をあがめました。

考えよう

  罪が赦される。それは神様にしかできないことであり、病が癒されるということよりも遥かにすばらしいことです。イエス様こそ罪を赦す権威を持っておられるお方、神の御子なのです。 



 ―今週のみことば―
 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

 ルカの福音書5章20節 



6月11日

聖書箇所:ルカの福音書5章27節から32節
説教題:「罪人を招くため」
 

 テーマ ~罪人を悔い改めさせるため来られたイエス様~
 1.取税人に目を留め、招かれたイエス様(27~28節)
 
イエス様は一人の取税人に目を留められました。取税人はローマ帝国の権威を笠に着て私腹を肥やしていたので、人々に嫌われている存在でした。そんな取税人であるレビに、イエス様は目を留め「わたしについて来なさい」とレビを招かれました。
  するとレビはなんとイエス様の招きに応答し、すべてを捨てて従いました。彼がこのように応答したのは、イエス様こそ自分の心の飢え渇きを本当に満たしてくださるお方だと気づいたからです。人々からお金をだまし取り、嫌われている私のことを、この方は招いてくださるのか。この喜びのゆえに、レビはすべてを捨ててイエス様に従ったのです。

2.文句を言ったパリサイ人たち(29~30節)
  喜びに満たされたレビはイエス様を盛大にもてなしました。
  しかし、それを見たパリサイ人たちは弟子たちに文句を言いました。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」と。パリサイ人たちは、自分をきよく保とうと、取税人や罪人たちとは関わらないようにしていました。ですから彼らは「取税人や罪人たちと一緒に食事をするなんて」と文句を言ったのです。

3.イエス様が来られた目的(31~32節)
  そんなパリサイ人たちに気づかれたイエス様は「健康な人には、医者の必要はない。むしろ悪い所があるから、弱っているからこそ医者を必要とするのだ。それと同じように、取税人や罪人こそ、神様の救いを必要としているのではないか」と仰いました。
  そしてイエス様は続けて、ご自分が来られた目的を語られました。「わたしが父である神様からこの地上へと遣わされて来た目的、それは罪人を招いて悔い改めさせるため、救いをもたらすためなのだ。救いを必要としている罪人のためにこそ、わたしは来たのだ」と。

チャレンジ

  神の御子であるイエス様は、罪人である私たちのことを悔い改めさせるために来てくださいました。このことに感謝しましょう。
  そして人々にもこの救いの喜びを伝えましょう。 



 ―今週のみことば―
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改め

させるためです。 ルカの福音書5章32節 



6月18日

聖書箇所:士師記65章25節から32節
説教題:「気弱な士師」

テーマ ~悪を除き去り主に従う者を祝福してくださる主~
 1.自分の家の悪を取り除くよう命じられた主(25~26節)
  主が士師であるギデオンに言われたことはまず「自分の家の悪を取り除きなさい」ということでした。ギデオンの家にまで、偶像崇拝が入り込んでいたのです。
  続けて主は「主のために祭壇を築き、全焼のささげ物を献げよ」と言われました。「全焼のささげ物」は、罪の宥めのささげ物として献げられ、ささげ物は完全に焼き尽くされました。そのように、主に対する罪を完全に除き去りなさいと主は命じられたのです。

2.主に従ったギデオン(27節)
  ギデオンは父の家の者や町の人々を恐れたため、主に命じられたことを夜に行いました。主がともにいてくださると頭ではわかっていても、現実を前にして彼は恐れました。その姿は人々を導く士師とはとても呼べないような弱々しいものです。
  しかしここで大事なことは、彼がそれでも主のことばに従ったということです。確かに人々の目を恐れる姿は、信仰の勇士とは言えないようなものかもしれません。しかし彼はそれでも主のことばに従ったのです。

3.怒った人々と主に立ち返った父ヨアシュ(29~32節)
  バアルの祭壇とアシェラ像が壊されたことに気づいた人々は、怒って犯人を探しました。そしてギデオンが犯人だと突き止めた人々は、ギデオンの父ヨアシュのもとに押し寄せて言いました。「おまえの息子を殺すために引き出せ」と。
  そんな人々に対して、ギデオンの父ヨアシュは「もしバアルが本当に神なのであれば、バアル自身がギデオンに報いればいいのだ。人の手を借りなければ復讐できないような神など本当の神ではない。それは所詮人の手によって作られたものに過ぎないのだ」と言いました。私たちの目には弱々しく思えたギデオンの行動でしたが、その一歩によって父ヨアシュは真の神である主に立ち返ったのです。

考えよう

  主は私たちにも、罪を悔い改め、主に従うことを願っておられます。そして私たちが主に従う時、主は私たちのことも豊かに祝福してくださるお方なのです。 

 

 ―今週のみことば―
神へのいけにえは 砕かれた霊。 打たれ 砕かれた心。 神よ あなたはそれを蔑まれません。

 詩篇51篇17節 

2023年7月

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7月2日

聖書箇所:ルカの福音書5章33節から39節
説教題:「新しい教えを受け入れるには」

テーマ ~手放せないでいる思いを捨て去り、ただイエス様を受け入れる~
 1.断食しないことに文句を言い、イエス様を信じなかったパリサイ人たち(33節)
 
パリサイ人たちは「断食することは神様を信じる敬虔な者の証しである」と考えていました。そして自分たちもよく断食を行っていました。
  そこで、彼らは自分たちが大事にしていた教え、また習慣でもあった断食をイエス様の弟子たちがしないということを問題視しました。そして自分たちが大事にしている教えを守らないイエス様を、救い主とは信じませんでした。

2.今は救い主の到来という喜びの時だと教えられたイエス様(34~35節)
  そんなパリサイ人たちに、イエス様はご自分を花婿になぞらえながら答えられました。花婿がいる時、それは結婚という喜びの時です。それに対し、断食とは本来主の御前に心から嘆き悲しんでなされるものです。
  「今は救い主の到来という喜びの時であって、断食をする時ではない。だから今は、弟子たちは断食をしないのだ」とイエス様は仰ったのです。

3.新しい教えを受け入れるよう招かれたイエス様(36~39節)
  さらにイエス様は一つのたとえを話されました。
  このたとえを通してイエス様は、①パリサイ人たちの古い教えにイエス様が語られた新しい教えを当てはめることはできないということ。②イエス様が語られる新しい教えには、新しい素直な心が必要であるということ。③自分たちの古い教えにこだわり、イエス様を受け入れないパリサイ人たちは、頑なに古い物は良いと言っているだけだということを指摘されました。そして彼らに、自分たちが握りしめているそのこだわりを捨て、素直な心で真の救い主イエス様を信じるようにと招かれました。

考えよう

今あなたがイエス様を信じることを妨げている思いは何でしょうか。その思いを捨て去り、イエス様を信じることができますように。 



 ―今週のみことば―
 イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに  断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがて時が来て、花婿が 取り去られたら、その日には彼らは断食します。」

 ルカの福音書5章34~35節 


7月9日

聖書箇所:ルカの福音書6章1節から11節
説教題:「安息日の目的」

テーマ ~安息日の主であるイエス様に喜んで礼拝を献げる~
1.ご自分を「安息日の主」と仰られたイエス様(1~5節)
  今回パリサイ人たちが問題にしたのは、弟子たちが「安息日にしてはならないことをした」ということでした。
  弟子たちは安息日に麦の穂を摘んで、手でもみだして食べました。これはパリサイ人たちの教えに違反することだったのです。 そんなパリサイ人たちに、イエス様はダビデの例を出しながら反論なさいました。「教えを守ることはもちろん大事なことだが、神様は人の必要をよくご存じのお方であって、その必要が満たされることをよしとされるお方なのだ」とイエス様は仰られたのです。
  さらにイエス様はご自分が「安息日の主」であると仰いました。安息日は神様が定められたものです。それをイエス様はここで「わたしは安息日の主です」と仰いました。イエス様はご自分を神様と同一視しておられたのです。

2.安息日に喜ばれることは何かを行動で示されたイエス様(6~11節)
  さらにイエス様はご自分が安息日の主であるということを行動によって明らかにされました。
  イエス様が会堂に入り教えておられると、そこに右手の萎えた人がいました。この時律法学者たちやパリサイ人たちは、イエス様を訴えようと、じっと見ていました。
  そんな彼らの心の内の思いを知っておられたイエス様は尋ねられました。「安息日の律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか」と。「安息日とはいかに違反しないようにと消極的になるものではなく、積極的に主を喜び、主に喜ばれることをするための日なのだ」とイエス様は教えようとされたのです。
  そしてイエス様は右手の萎えた人を癒してくださいました。安息日にすべきことは神様に喜ばれることだと示しつつ、ご自分が主であることをイエス様は明らかにされたのです。

祈り

  どうか私たちが感謝と喜びをもって、安息日の主であるイエス様に礼拝をお献げすることができますように。 



 ―今週のみことば―
そして彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」

 ルカの福音書6章5節 


7月16日

聖書箇所:ルカの福音書6章12節から19節
説教題:「祈りによる選び」

 テーマ ~主のみこころに従うための祈り~
 1.夜通し祈られたイエス様(12節)
  パリサイ人たちや律法学者たちはイエス様を受け入れようとしませんでした。そんな時に、イエス様は使徒を任命されました。旧約の時代に神様が十二部族を選ばれたように、イエス様も新しい契約を結ぶ十二人、教会を生み出していく十二人を選ばれたのです。
  だからこそ、イエス様は夜を徹して祈られました。誰が使徒としてふさわしいのか、誰を使徒として選べばよいのか、いや、主は誰を選ぶようにと仰っているのか、主のみこころを求めてイエス様は祈られたのです。

2.祈りによって任命された十二人の使徒(13~16節)
  イエス様は祈りによって、十二人を選ばれました。そして彼らに「使徒」という名をつけられました。
  「使徒」というのは「特別な任務、権威を持って遣わされた者」という意味です。彼らはイエス様と寝食をともにし、まさに生き証人として福音を宣べ伝える者、イエス様のことを証しする者となりました。
  しかし弟子たちがどんな人物だったのか見てみると、弱さも抱えたいろいろな人が選ばれたのだということがわかります。そしてそんな弱い一人ひとりのためにイエス様は祈ってくださいました。自分を裏切ることになるユダのためにさえ、イエス様は祈られたのです。そしてイエス様は神様のみこころに従い、使徒を任命されました。このことによって世界中に福音が宣べ伝えられ、私たちのもとにも福音が伝わってきたのです。

考えよう
 
イエス様は使徒を選ぶ時、夜を徹してお祈りしてくださいました。それは主のみこころを知り、従うためでした。

  私たちの祈りはどうでしょうか。イエス様のように、自分の思いや願いを主のみこころに近づけていくための祈りになっているでしょうか。私たちが祈る祈りの一つ一つが、主のみこころを求め、主に従うものへとなっていくことができますように。 



 ―今週のみことば―
 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。そして、 夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。 ルカの福音書6章12~13節 


7月23日

聖書箇所:士師記6章33節から40節
説教題:「主を試す」

テーマ ~主の御前にへりくだり、主に信頼する~
 1.主の霊におおわれたギデオン(33~35節)
 
「主の霊におおわれた」ギデオンは、角笛を吹き鳴らしました。すると人々が続々とギデオンのもとに集まって来ました。人々が彼のもとに来たその背後には主がおられました。いや主の霊がギデオンに臨んだからこそ、人々もギデオンに呼応して集まり、彼に従ったのです。

2.主から出たことであることを知るために、しるしを求めたギデオン(36~40節)
  そんな中ギデオンは神様にしるしを見せてくださるよう願いました。それは彼が自分自身の弱さ、小ささをよく知っていたからでしょう。そして彼は、自分の思いによって物事を進めても、主のみこころでなければうまくいくことはないと信じていたのです。
  ギデオンは主の力を信じているからこそ、主がともにいてくださるというしるしを求めたのです。そんなギデオンの願いに主は応えてくださいました。
  しかしギデオンは再び主に願いました。「もう一度だけ試みさせてください」と。ギデオンの言葉を私たちは疑問に思うかもしれません。「主を試みてもいいんだろうか」と。
  「主を試みてはならない」というのは、主ご自身の力を疑い、主を試してはならないということ、不信仰のゆえに主を試してはならないということです。
  しかしギデオンが言ったことは、決して不信仰から出たことではありません。彼は自分の弱さを知り、謙遜であったがゆえ、また神様に信頼しているからこそ主を試みたのです。
  だからこそ、主も再び応えてくださいました。弱い者であるギデオンを主はあわれみ、彼の信仰を喜んで受け入れてくださいました。

願い
 
ギデオンは、主がともにいてくださる道を選択しようと、いつも主に願い求めました。そんなギデオンを主はあわれみ、彼の信仰に応えてくださいました。

  ギデオンのように、私たちもまた、主の御前にへりくだり、どんな時にも主のみこころを求めて祈っていきたいと思います。 


 ―今週のみことば―
ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一度だけ言わせてください。どうか、この羊の毛でもう一度だけ試みさせてください。  士師記6章39節前半 

2023年8月

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8月6日

聖書箇所:ルカの福音書6章20節から26節
説教題:「主にある幸い」

 テーマ ~主にある幸いに目を留め、今を生きる~
 1.幸いな人(20~23節)
 
イエス様は貧しい者、今飢え、泣く者のことを幸いな人と仰いました。また人々から憎まれるとき幸いだと仰いました。それはクリスチャンの歩みそのものです。クリスチャンはその信仰のゆえに貧しくなり、飢え、泣き、人々から憎まれます。
  貧しさ、飢えや悲しみ、人々から憎まれること、それら一つ一つはうれしいことではありません。しかし、やがて来る御国において、祝福があることをイエス様ははっきりと約束してくださいました。天の御国においてクリスチャンは大きな祝福に与る。この希望があるので、私たちは今困難な時を、喜びをもって生きるのです。

2.哀れな人(24~26節)
 
イエス様は幸いな人だけでなく、哀れな人についても語られました。「哀れ」という言葉は「わざわい」とも訳される言葉です。神様からわざわいだと言われるような歩みもあるのです。
  富んでいる人、今満腹している人、笑っている人はわざわいだとイエス様は仰いました。また、みなからほめられるときわざわいだと仰いました。それはわざわいだと言われるような人は天の御国での祝福ではなく、今この世における繁栄、成功を求めるからです。また、人々の反応を気にして、耳障りの良いことを語るからです。そのような人は天の御国での祝福に与ることはできません。

チャレンジ
 
今、私たちはイエス様が幸いだと仰った、貧しい者として歩んでいるでしょうか。神の国とその義とを第一に求め、困難の中にあっても、天の御国での祝福に目を留め、喜んでいるでしょうか。それとも、わざわいだと言われるような、今の繁栄、この世における成功を求めて生きているでしょうか。

  どうか、私たちがやがてもたらされる天の御国での報いへと目を向けることができますように。主にある幸いを覚え、困難の中、喜んで歩んでいくことができますように。 



 ―今週のみことば―

 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を 悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には躍り上がって喜びなさい。 見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。

ルカの福音書6章22~23節前半 


 

8月13日

聖書箇所:詩篇23篇1~6節
説教題:「主は私の羊飼い」

テーマ ~主(神様)が羊飼いとして私を養ってくださる幸い~
 1.主が安息を与え、滅びから救い出してくださる幸い(1~3節)
  自分が羊のように迷いやすく、弱い者であって、導いてくれる方が必要なのだとダビデは言います。そして、そんな自分を導き、守ってくださるのが主なのだと彼は告白しました。
  羊飼いが羊の必要をよく知り、一番良い所に導くように、神様は私たちのことを導いてくださいます。羊のように自分勝手に進み、神様から離れて死んでいた私のたましいを、神様はご自分のもとへと戻してくださるのです。

2.最もつらい時にも、主が私とともにいてくださる幸い(4節)
  そればかりではありません。最もつらい時でさえも私は恐れないとダビデは言います。  なぜ恐れずにいられるのでしょうか。それは「あなたがともにおられるから」です。主は試練の中にあっても、私を支え、正しい方向を指し示し、導いてくださるお方なのだ。こう確信するからこそ、ダビデはつらい時にも慰めや励ましがあると言うのです。

3.主が私を喜んで迎え入れ、祝福してくださる幸い(5~6節前半)
  さらに、私たちのことを導いてくださる主は、私たちのことを喜んで迎え入れてくださるお方です。私のいのちの日の限り、私が生きている間中、ずっとずっと主は私のことを祝福してくださいます。神様からのいつくしみと恵みが私を追い、私に追いつき、私を離さない。神様からの豊かな祝福によって私はいつまでも包まれるのです。それはなんという幸いでしょうか。

招き
  今あなたも、「私を導いてくださる羊飼い」として主を受け入れませんか。そして主に信頼して歩んでいきませんか。神様に信頼して歩むとき、そこには私たちを追って包み込む神様からの豊かな祝福があるのです。

  どうか今あなたも主を信頼し、主に従って歩んでいく決意をすることができますように。 


 ―今週のみことば―
  まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。

私はいつまでも の家に住まいます。 詩篇23篇6節 


8月20日

聖書箇所:ルカの福音書6章27~38節
説教題:「あなたの敵を愛しなさい」


テーマ ~あなたの敵を愛しなさい~
 1.敵を愛するとは(27~31節)
  敵を愛するということ、それはクリスチャンを憎む人々に善を行い、呪う人々を祝福し、侮辱する人たちのために祈るということです。これは世の常識とは真逆のことです。
  イエス様が仰った愛とは、相手に左右されることなく愛する、本当の愛です。それはまさに神様の愛です。神様から離れ自分勝手に歩んでいた私たちのことを、神様は愛してくださいました。この真の愛によって、迫害する者、敵を愛しなさいとイエス様は仰られたのです。たとえ自分にとって損になると思えても、私たちクリスチャンは敵を愛します。それは神様の愛を知っているからです。私さえも愛してくださった神様の愛を知っているからなのです。

2.敵を愛する理由(32~36節)
 
 さらにイエス様は「罪人たちは、自分にとっての損得によって行動する。しかし、あなたがたクリスチャンはそうであってはならない。あなたがたは敵を愛しなさい。相手に左右されず良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。」と仰いました。
  子どもが親と似てくるのと同じように、神の子どもとされた私たちクリスチャンも、あわれみ深い神様に似せられていきます。だからこそ、私たちも敵を愛することができるのです。

3.敵を愛することでもたらされる結果(37~38節)
  またイエス様は、敵を愛する結果がどれほどすばらしいものかを教えてくださいました。主はあわれみ深い者にあわれみをもって豊かに報いてくださるのです。

考えよう

  イエス様は私たちに「あなたの敵を愛しなさい」と仰いました。このイエス様のことばをしっかりと受け止めたいと思います。イエス様はできないこと、ただの理想を語られたのではありません。私たちの父である神様ご自身があわれみ深いお方だからこそ、私たちもあわれみ深い者になることができるのです。神様の愛を本当に知るからこそ、私たちもその愛によって敵を愛することができます。どうか私たちも敵を愛することができますように。 


―今週のみことば―
 しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。  ルカの福音書6章27節前半 

2023年9月

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9月3日

聖書箇所:ルカの福音書6章39節から49節
説教題:「イエス様に聞き従う」

テーマ ~イエス様に根ざして生きる~
  イエス様は私たちクリスチャンがどのような危険に陥りやすいのか、また危険に陥らないためにどのようにすればよいのか、6つのたとえを用いて教えてくださいました。
①盲人による案内(39節)
  盲人が盲人の案内をすれば、二人とも共倒れになってしまします。それと同じよう に、私たちクリスチャンも自分が罪人に過ぎないということを忘れ、人に教えようとする、そんな高慢に陥る危険 があるとイエス様は仰います。
②弟子と師の関係(40節)
 そんな私たちに、イエス様は弟子と師の関係から教えてくださいました。
  弟子は、自分には足りない物があると自覚し、師のようになるために、師のもとで訓練を受けます。それと同じように私たちクリスチャンも、自分が罪人に過ぎないこと を認め、師であるわたしを模範に生きなさいとイエス様は仰るのです。
③目にあるちりと梁(41~42節)
  「兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁に気づかない」とは、 他人のほんのささいなことには気が付き、注意するけれども、自分の直すべきところ には気づかない。そんな姿のことです。それは偽善なのだとイエス様は仰います。そしてそんな偽善を避けるために、イエス様は私たちに自己吟味を命じられました。
④木と実の関係(43~44節)
  続けてイエス様はどのように自己吟味すればよいかを教えてくださいました。それは信仰の結果である行いを見る、つまり日々の歩みを吟味するということでした。
⑤良い倉と悪い倉(45節)
  心の内にあるものを人は口に出します。それと同じように、私たちの信仰も、心の中に留まるのではなく、日々の歩みに現れてくるものなのです。
⑥土台を据えて家を建てる人(46~49節)
  最後にイエス様は、イエス様のことばを聞いても行わない人の末路について語られ ました。聞いても行わない人の末路は神様からのさばきという厳しいものだと、イエス様は仰います。

願い
  イエス様の話されたたとえは、私たちにとって厳しい響きを持っています。それでも、どうかイエス様のことばを真正面から受け止め、自分の歩みを振り返って吟味することができますように。そして聞いて終わりではなく、イエス様のことばに根ざした歩みをすることができますようにと願わされます。


 ―今週のみことば―
なぜあなたがたは、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。  ルカの福音書6章46節 


9月10日

聖書箇所:ルカの福音書7章1節から10節
説教題:「百人隊長の信仰」

テーマ ~揺るがない信仰~
 1.しもべのために助けを求めた百人隊長(1~6節前半)
  ある百人隊長のしもべが、病気で死にかけていました。イエス様が近くまで来られたことを知った百人隊長は、イエス様に助けをもとめて人を遣わしました。
  遣わされてやって来た長老たちは「この人は、イエス様に来ていただいて、しもべを癒やしていただくのにふさわしい人物です」と言いました。その理由は「彼が私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれた」からです。
  それはまさに、イエス様が語られた弟子としての歩みそのものでした。そんな百人隊長の歩みを知られたイエス様は、長老たちの願いに応えて、彼らとともに百人隊長の家に向かわれました。

2.百人隊長の揺るがない信仰(6節後半~9節)
  ところが、家までそう遠くないところまで来た時のことです。また使いがやって来て「主よ、わざわざおいでくださることはありません」と言うではありませんか。
  このように百人隊長が言ったのには訳がありました。それはまず第一に「私はイエス様を家にお迎えすることができるような者ではない」と百人隊長が自分の罪深さをよく知り、へりくだっていたからです。そして第二に「イエス様は、ことばによってしもべを癒すことができる」と、イエス様の神の御子としての権威を、百人隊長が信じ、信頼していたからです。
  そんな百人隊長の言葉を聞いたイエス様は彼の信仰のすばらしさに驚かれました。その信仰はイスラエルのうちでも見たことがないほどのすばらしい信仰でした。

3.死の病さえもことばによって癒されたイエス様(10節)
  イエス様のもとに遣わされた人々が家に戻って見ると、しもべはよくなっていました。イエス様は死の病さえも、ことばによって癒やすことがおできになるお方なのです。

考えよう

  私たちは、イエス様の神の御子としての権威を信じ、イエス様に信頼して歩んでいるでしょうか。
  百人隊長が揺るがない信仰に立ち続けたように、どうか私たちも、どんな困難の中にあっても、ただイエス様に信頼して歩んでいくことができますように。 


 ―今週のみことば―
 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。

ルカの福音書7章7節 


9月17日

聖書箇所:ピリピ人への手紙3章12節から14節
説教題:「目標を目指して」

テーマ ~目標を目指して歩み続ける~
 1.パウロからピリピのクリスチャンたちへの励ましの手紙
  この手紙は、パウロとテモテから、ピリピのクリスチャンに向けて書かれたものです。次の日に解放されるのか、殺されるのかもわからない中で、彼は手紙を書きました。
  パウロは、自分がキリストと同じようになり、死者の中からの復活に達したいのだと語りました。これは私たちクリスチャンが抱いている希望です。

2.キリストが捕らえてくださったゆえ(12節)
  希望を語ったパウロは「自分がすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもないのだ」と言います。非難されることのないまでに徹底して律法を守ってきたパウロですが、そんな自分もまた未完成の者なのだと言うのです。そして「希望を獲得しようと必死になって追い求め続けているのだ」と言いました。
  さらに続けてパウロは、追い求め続けるその原動力について「キリスト・イエスがわたしを捕らえてくださったからだ」と言います。救い主であるキリスト・イエスご自身が、私を捕らえてくださった。この喜びを私は知っている。だから、私は必死になって追い求めているのだと。

3.目標を追求し続ける歩み(13~14節)
  そしてパウロはどのように追い求めているのか、その様子を詳しく語りました。
  まずパウロは「うしろのものを忘れ、前のものへと向かって、ただ一心に追い求めている」と言いました。次に「与えられる賞のために、今追い求めているのだ」と言います。そして最後に「目標を目指して」追い求めているのだと言いました。
  これらのことからわかるのは、パウロはやみくもに追い求めているのではなく、揺るがない確信のもと、目標を目指して追い求め続けているということです。

願い

  私たちは困難の中、いつまで歩めばよいのかと疲れ果ててしまうことがあるかもしれません。しかしそんな時にこそ、私たちが追い求め続ける原動力である救いの喜びを思い出したいと思います。そしてパウロが追及し続けたように、神が召してくださるそのときまで、完成を目指して歩み続けたいと思います。


 ―今週のみことば―
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕ら えようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。 ピリピ人への手紙3章12節 

2023年10月

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10月1日

聖書箇所:ルカの福音書7章11節から17節
説教題:「あわれみ深い主」

 テーマ ~あわれみ深い主~
 1.一人息子を失ったやもめの悲しみ(11~12節)
  ナインという町に行かれたイエス様は、ある母親の一人息子が死んで担ぎ出されるところに遭遇されました。 この母親はやもめでした。息子を失うだけでもつらいのに、それが、自分にとってたった一人の家族を失うということだなんて。母親の悲しみ、その大きさ深さは想像を絶するものであったでしょう。この母親は絶望のどん底にいたのです。

2.母親を深くあわれみ、生き返らせてくださった主(13~15節)
  イエス様はそんな母親を見て、「深くあわれまれ」ました。心の底から、深い同情とあわれむ思いをイエス様は持たれたのです。そしてイエス様は母親に「泣かなくてもよい」と仰いました。それは「わたしが、その悲しみを解決してあげよう。あなたはもはや、泣く必要はないのだ」ということでした。
  イエス様はこのことば通りに、悲しみを解決してくださいました。棺に近づき触れられたイエス様が「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と仰ると、ことば通りに、若者は起き上がってものを言い始めたのです。若者は生き返りました。死人を生き返らせる主の力が、イエス様にはありました。
  イエス様は、深いあわれみによって若者を生き返らせ、絶望のただなかにあった母親のもとに返されました。母親の喜びはどれほどのものだったことでしょう。

3.神をあがめた人々(16~17節)
  この出来事を見た人々は恐れ、そして神をあがめました。人々はイエス様のなさった奇蹟を見て、そこに神様の御力が現わされていることを認めたのです。
  イエス様がなされたこと、言葉は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まっていきました。

願い
  イエス様は絶望の中にいたやもめを深くあわれみ、死人を生き返らせてくださいました。それは神様の力の現れでした。

 イエス様は、悩みや苦しみの中にいる私たちを深くあわれみ、「もう泣かなくてもよい」と仰ってくださるお方、解決を与えてくださるお方です。
  死さえも支配しておられる主ご自身に、私たちもより頼んでいくことができますように。 


 ―今週のみことば―
主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
ルカの福音書7章13節 


10月8日

聖書箇所:ルカの福音書7章18節から23節
説教題:「わたしにつまずかない者は幸いです」

テーマ ~聖書が語る真の救い主イエス様~
1.イエス様が救い主かどうか、不安になったバプテスマのヨハネ(18~19節)
  牢獄に入れられていたバプテスマのヨハネは、弟子を通してイエス様の様子を知りました。話しを聞いた彼は、イエス様が本当の救い主かどうか不安になりました。
  彼が不安に思ったのは、イエス様の働きが、ヨハネが期待していたものと違っていたからでしょう。
  郷里の人々はイエス様を受け入れず、律法学者たちもイエス様を殺そうとさえしていました。イエス様に対するこのような人々の反応は、救い主の道備えをしていたヨハネの期待に反するものだったのです。それゆえ、ヨハネはイエス様が本当に救い主かどうか疑問に思い、イエス様に使者を遣わしたのです。

2.聖書が語る真の救い主イエス様(20~23節)
  「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねるヨハネの弟子たちに、イエス様は「あなたがたが見たこと、聞いたことを伝えなさい」と仰いました。
  弱い者により添い、救いの手を差し伸べるイエス様の姿は、旧約聖書で語られていた救い主の姿そのものでした。困難の中動揺し、不安になってイエス様を疑ったヨハネに対して、ご自分がなさっていることは聖書が語っている救い主の働きそのものなのだとイエス様は仰ったのです。
  さらに続けてイエス様は「わたしにつまずかない者は幸いです」と仰いました。イエス様こそ真の救い主であり、イエス様を信じる者には、永遠のいのちが与えられるというすばらしい祝福があります。それゆえ「イエス様につまずかない者は幸い」なのです。

考えよう
  私たちもヨハネと同じように、困難な現実に直面する時に、イエス様への信頼、信仰が揺らぐときがあるかもしれません。

  しかし、その度にみことばに目を向けたいと思います。イエス様こそ、聖書が語る本当の救い主なのだと確認し続けたいと思います。そしてイエス様を救い主と信じ、信頼して歩んでいきたいと思わされます。 


 ―今週のみことば―
主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
ルカの福音書7章13節 


10月15日

聖書箇所:ルカの福音書7章24節から35節
説教題:「知恵の子らが証明する知恵の正しさ」

テーマ ~神の国に属する幸い~
 1.神の国に属する者の偉大さ(24~28節)
  イエス様はヨハネについて「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません」と仰いました。しかし驚くことにイエス様はさらに続けて「そんなヨハネでさえも、神の国に属する者に比べれば、小さい者なのだ」と仰いました。
  神の国に属する者、それはイエス様を救い主と信じる私たち一人ひとりのことです。 ヨハネは、救い主イエス様が来られる準備をする者でした。それに対して、私たちは救い主イエス様によってもたらされた救いを知る者です。 本当の救いを知り、神の国に属する者とされた私たちクリスチャンは、イエス様の道備えをしたヨハネよりも、遥かにすばらしい救いを知る者だとイエス様は仰ったのです。

2.神様のみこころを拒んだ人々(29~34節)
 
続けてイエス様は、救いを受け入れようとしない人々について語られました。パリサイ人たち、律法学者たちは、この救いを自ら拒みました。
  イエス様がもたらしてくださった救い。それは私たちの根本の問題である罪を解決する唯一の道です。罪人が赦され、神の国に属する者となるという、これ以上ないすばらしい救いです。しかし、この救いに与るには、イエス様を真の救い主と信じる私たちの応答が必要なのです。

3.すべての知恵の子らが証明する知恵の正しさ(35節)
  イエス様は最後に「知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」と仰いました。知恵、それはイエス様が語られた教えのこと、そしてすべての知恵の子らとは、イエス様のことを救い主と信じる私たち一人ひとりのことでしょう。イエス様を真の救い主と信じ、神の国に属する者とされた私たち一人ひとりの歩みによって、イエス様こそ真の救い主なのだと証しされていくのです。

願い

  イエス様を救い主と信じる者は、神の国に属する者です。神の国に属する者とされている。この幸いを覚えたいと思います。そしてイエス様が仰ったように、イエス様こそ、真の救い主なのだと人々に証しする者でありたいと願わされます。 


―今週のみことば―

しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。

ルカの福音書7章35節 


10月22日

聖書箇所:士師記7章1節から25節
説教題:「ただ主の力によって」

テーマ ~主に信頼する者に与えられる勝利~
1.主による兵の選抜(1~8節)
  戦いを前にして、主はギデオンに「ミディアン人たちをあなたがたの手に渡すには、イスラエルの兵は多すぎる」と仰いました。
  そして主の選びによって、最初は三万二千人いた兵士たちが、最終的にたった三百人になりました。主は「この三百人であなたがたを救う」と仰いました。ただ主ご自身によって勝利は与えられる。このことを主ははっきりと示されたのです。

2.恐れるギデオンに平安を与えてくださった主(9~15節)
  しかし、たった三百人でどうやって勝てるだろうかとギデオンは恐れました。主は、そんなギデオンの恐れを取り除いてくださいました。
  ギデオンが敵の陣営に行ってみると、ミディアン人の兵士たちは恐れていました。主がミディアン人たちを恐れさせたので、戦う前からすでにミディアン人の兵士たちの心は折れていたのです。 ギデオンが直面した現実はあまりにも困難なものでした。しかしどれほど困難な状況だったとしても、主は必ず勝利を与えてくださるということをギデオンは知りったのです。

3.主によって与えられた勝利(16~25節)
  ギデオンとイスラエルの兵士たちは、主によって知恵を与えられ、歴史的大勝利を収めました。どんな困難の中にあっても、主は、主に信頼する者に勝利を与えてくださるのです。

願い 
  私たちも困難にぶつかり、主に信頼できない時があるでしょう。でも、主はそんな私たちの弱さをよくご存知のお方であり、主に信頼することができるよう導いてくださるお方です。そしてどれほどの困難であっても、主は勝利を与えることができるお方です。

 目の前の現実がどれほど困難なものであったとしても、ただ主に信頼して歩んでいきたいと願わされます。 


―今週のみことば―

ギデオンはこの夢の話と解釈を聞いたとき、主を礼拝し、イスラエルの陣営に戻って 言った。「立て。はミディアン人の陣営をあなたがたの手に渡された。」

士師記7章15節 

2023年11月

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11月5日

聖書箇所:ルカの福音書7章36節から8章3節
説教題:「罪深い女」
  

テーマ ~罪が赦されているすばらしさを知り、主に従う~
 1.イエス様の前にひざまずいた罪深い女(36~38節)
  あるパリサイ人の家でイエス様が食事の席に着かれた時のこと、そこに罪深い女がやってきました。すると彼女はイエス様の足元に来て、涙を流して泣きました。
  罪深い女である彼女は、イエス様に近づきながらその数々の罪を思い起こしたのでしょう。そして自らの罪を悔い、涙を流したのです。
  続けて彼女は濡れたイエス様の足を、自分の髪でぬぐいました。そしてその足に口づけし、香油を塗りました。イエス様の前に彼女は心からひれ伏したのです。

2.罪の赦しの大きさを知るからこその愛(39~47節)
  一方、この女性の姿を見て、おかしいと思っていたのがイエス様を招いたパリサイ人でした。罪深い女を蔑んでいたパリサイ人には、彼女の心からの悔い改めも響かなかったのです。
  そんなパリサイ人にイエス様は一つのたとえから、罪が赦されるということのすばらしさを伝えようとなさいました。
  パリサイ人はイエス様に対して心からの歓迎をしませんでした。それは彼が自分の罪を深く自覚していなかったからです。罪が赦されるということのすばらしさを本当には味わっていないからです。一方、罪深い女は自分の罪深さを知っていました。そして罪が赦される喜びを知っていました。だからこそ彼女はイエス様の前にへりくだり、心からイエス様を愛したのです。

3.罪赦されている幸い(48節~8章3節)
  最後にイエス様はこの女性に「あなたの罪は赦されている」と仰いました。罪の赦しを知った喜びが今、彼女を動かしているのです。

感謝

  罪赦された女は、心からの感謝と喜びをもってイエス様を愛しました。改めて私たちも罪が赦されていることに心から感謝し、主に従っていきましょう。 



 ―今週のみことば―
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は 多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。

ルカの福音書7章47節 


11月12日

聖書箇所:ルカの福音書8章4節から18節
説教題:「聞く者に」
 

 テーマ ~みことばを聞き、みことばを証しする者に~
 1.人々にたとえを用いて語られたイエス様(4~10節)
  イエス様は人々がみもとにやって来たので、たとえを用いて話されました。イエス様がわざわざたとえで話されたのは、イエス様が語られたことが神の国の奥義だったからです。
  そしてイエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と人々に向かって叫ばれました。よく耳を傾け、神の国の奥義を理解するようにと人々に促されたのです。

2.イエス様が明らかにされた神の国の奥義(11~15節)
  たとえの意味について尋ねた弟子たちに、イエス様はその意味を明らかにしてくださいました。
  イエス様は、みことばが人々に宣べ伝えられる様子を種蒔きにたとえられたのでした。同じ神様のみことばを聞いても、頑なな心でみことばを受け入れない人もいれば、みことばが根付かず試練にあうと離れてしまう人、あらゆる誘惑に惑わされて実を結ばない人もいること、そしてみことばを聞いてとどまり、忍耐して実を結ぶ人がいることをイエス様は明らかにされました。
  みことばをどう受け止めるかによって結果は異なるのです。みことばに私たちがどう応答するのかに、実を結ぶかどうかはかかっている。これこそ、神の国の奥義だったのです。

3.「みことばを聞き、みことばを証しする者に」との勧め(16~18節)
  イエス様は続けて「ですから聞き方に注意しなさい」と言われました。「ただ聞いて終わりにするのではなく、みことばを聞き、みことばに生きる者になりなさい。人々にみことばの光を証しする者になりなさい」とイエス様は弟子たちに勧められました。

願い

  イエス様が弟子たちに語られたことは、私たち一人ひとりに語られていることでもあります。私たちはみことばをどのように聞いているでしょうか。自分に語りかけられていることとして、みことばを聞いているでしょうか。みことばを聞き、みことばに生きているでしょうか。
  どうかみことばを聞き、みことばの光を人々に証しする者になることができますように。 

 ―今週のみことば―
ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。

ルカの福音書8章18節 


11月19日

聖書箇所:サムエル記第一1章20節から28節
説教題:「子を主にゆだねる」
 

テーマ ~主によって与えられた子を、主にお返しする~
 1.主が願いを聞いてくださったことで与えられた子(20節)
  ハンナが産んだ男の子は、主が彼女の祈りを聞いてくださり、与えてくださった子どもでした。
  ハンナは祈りを聞いてくださった主に感謝して、子どもに「サムエル」という名前を付けました。「神様は私の祈りを聞いてくださった。この方こそ真の神様だ」そんな思いでハンナは子どもに名前を付けたのです。

2.主のことがわかるようになるまで、子どもを育てたハンナ(21~23節)
  ハンナは、サムエルのことを大事に育てていたことでしょう。そんな中、夫のエルカナが、家族そろってシロに上り、主にいけにえを献げようとしました。しかしなんとハンナが「私は行かない」と言い出したではありませんか。
  ハンナは、一緒に行かない理由について「この子が乳離れするまでは私は上っていきません」と言いました。「この子が私の手を離れる時が来る。その時この子が主こそ真の神様なのだとわかり、主にいつまでも仕えるようになるように、私はそれまではこの子を育てます」とハンナは言ったのです。
  夫のエルカナもハンナの思いをともに受け止め、その時が来るまでサムエルを自分たちで育てました。

3.子どもを主におゆだねしたハンナ(24~28節)
  子どもが自分の手を離れるその時がやってきた時、ハンナはサムエルを主におゆだねしました。ハンナが自分の子を主におゆだねできたのは「この子どもは主から与えられた子なのだ」と彼女が心から受け止めていたからこそのことでした。

考えよう
  子どもは主によって与えられているのだということを覚えましょう。そして子どもたち一人ひとりが主を信じ、主に従って歩んでいくことができるよう、子どもたちを育んでいきましょう。

  この働きは、まず親に、そして教会員一人ひとりに与えられているものです。子どもたち一人ひとりのことを覚え、ともにお祈りしていきましょう。 


―今週のみことば―
それで私もまた、この子をにおゆだねいたします。この子は一生涯、にゆだね られたものです。」こうして彼らはそこでを礼拝した。 サムエル記第一1章28節 

2023年12月

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12月3日

聖書箇所:マタイの福音書1章1節から17節
説教題:「神様の約束」
  

 テーマ ~変わらない神様の約束~
  マタイの福音書は系図で始まっています。この系図を通して、どんな時にも神様は変わらずに約束を守ってくださるお方なのだということが伝わってきます。
1.アブラハムへの約束の成就(2~6節前半)
  神様はアブラハムに「子孫に富ませること、アブラハムの子孫によって地のすべての国々が祝福を受けるようになること」を約束なさいました。系図を見る時に、この約束通りに子孫が与えられ、イスラエル王国は確立したのだということがわかります。それは人々が立派だったからではなく、ただただ神様のあわれみのゆえでした。 そして救い主イエス様のお誕生によって、すべての国々は祝福を受けたのです。

2.ダビデへの約束の成就(6節後半~11節)
  神様はダビデに「ダビデの子孫から代々王が立てられること、またとこしえまでも王座を立てる」と約束してくださいました。このことばどおりに、代々王が立てられました。たとえ神様に背を向けるような王であったとしても、神様は変わらずに約束を守ってくださり、王を立て続けてくださいました。
  そして真の王であるイエス様のお誕生によって、永遠に続く王座は打ち立てられました。

3.バビロン捕囚を経てもなお変わらなかった神様の約束(12~17節)
  神様に背を向け続けたイスラエルの人々は、バビロン捕囚を経験しました。しかしそんな時にも神様は、人々を見捨てず、約束を守り続けてくださいました。
  そしてイエス・キリストの誕生によって、変わらない神様の約束は成就したのです。

感謝
  系図は、神様がどんな時にも人々を見捨てず、約束を覚えていてくださったということを語っています。

  神様は私たちのことも見捨てず、覚えていてくださるお方です。私たちのためにイエス様を遣わしてくださったお方です。救い主であるイエス様のお誕生は、変わらない神様の約束の成就であることを覚え、神様に感謝しましょう。



 ―今週のみことば―
主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。
あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。
イザヤ書25章1節


12月10日

聖書箇所:マタイの福音書1章18節から25節
説教題:「罪から救う救い主」


テーマ ~私たちを罪から救う救い主イエス様の誕生~
 1.マリアが聖霊によってみごもったことを信じることができなかったヨセフ(18~ 19節)
  マリアはヨセフと婚約していました。ところが二人が結婚する前に、聖霊によって赤ん坊が与えられていることがわかりました。神様の力によってマリアはみごもったのです。
  しかしマリアの話しを聞いたヨセフは、離縁しようとしました。夫のヨセフでさえも、マリアが聖霊によってみごもったということを信じることができなかったのです。

2.生まれてくる子は人々を罪から救う救い主だと告げた御使い(20~23節)
  そんな中、主の使いがヨセフの夢の中に現れました。そして「マリアをあなたの妻として迎えることを恐れるな」と言いました。それは「胎に宿っている子は聖霊によるから」です。思い悩んでいたヨセフは励まされたことでしょう。
  さらに御使いは「生まれる子にイエスと名付けなさい」とヨセフに命じました。それはイエス様が「ご自分の民をその罪からお救いになる」からでした。聖書は、私たち人間は生まれながらにして罪人なのだと語っています。そんな罪人である私たちを罪から救うために、神の御子であるイエス様はお生まれになったのです。
  そしてこの福音書の記者マタイは、イエス様がお生まれになることが、預言されていたことだと語りました。イエス様がお生まれになる遥か前から、神様は救い主を送ってくださると約束してくださっていたのです。

3.御使いが告げたことを信じたヨセフ(24~25節)
  眠りから覚めたヨセフはマリアを妻として迎え入れました。ヨセフは、主の使いが夢の中で語ったことを信じたのです。そして生まれてきた赤ちゃんをヨセフはイエスと名付けました。神の御子であるイエス様は、確かに聖霊によって身ごもり、人としてお生まれになったのです。

チャレンジ

  今どうか、あなたも、イエス様こそ私たちを罪から救う救い主であり、聖霊によってお生まれになったのだと信じることができますように。 



 ―今週のみことば―
 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民を

民をその罪からお救いになるのです。 マタイの福音書1章21節 



12月17日

聖書箇所:マタイの福音書2章1節から12節
説教題:「王の誕生」


テーマ 王の誕生を喜び礼拝する
1.王を礼拝するために来た博士たち(1~2節)
  イエス様がお生まれになった時、東の方から博士がエルサレムへとやって来ました。彼らが来たのは、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を礼拝するためでした。お生まれになった方は、自分たちがひざまずき礼拝するべきお方なのだと博士たちは考えたのです。

2.王の誕生の知らせに動揺したヘロデ王と人々(3~8節)
  ユダヤ人の王の誕生という知らせを聞いて、当時王だったヘロデは動揺しました。ヘロデはこの方によって自分の地位が脅かされると思ったのでしょう。
  彼だけでなく、エルサレム中の人々も恐れました。真の王の誕生の知らせは本来喜ばしいことです。しかし人々は今の暮らしが変わってしまうのを恐れて、真の王の誕生というすばらしい知らせを喜ぶことができませんでした。
  ヘロデと人々は、真の王のもとに自分たちから赴くことなく、ただ博士たちを送り出しました。

3.王に出会えたことを喜び、礼拝した博士たち(9~12節)
  旅をつづけた博士たちは星に導かれ、とうとう幼子がいるところに到着しました。この時博士たちは「このうえもなく」喜びました。真の王に会えるのだという、これ以上ない大きな喜びが博士たちにはあったのです。
  幼子イエス様に出会った博士たちはひれ伏して、礼拝しました。真の王であるイエス様を前にしたとき、人はただただひれ伏し、礼拝するのです。
  そして博士たちは宝箱を開けて、献げ物の黄金、乳香、没薬をお献げしました。自分たちに献げることができる最上のものを博士たちはお献げしたのです。

考えよう

  イエス様はユダヤ人だけでなく、私たちの王です。博士たちが真の王イエス様の誕生を心から喜び、礼拝したように、私たちも喜びと感謝をもってイエス様の前にひざまずいて礼拝をお献げすることができますように。 


 ―今週のみことば―
それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。 そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。マタイの福音書2章11節 

 

12月24日

聖書箇所:ルカの福音書2章8節から20節
説教題:「あなたのために生まれた救い主」


テーマ~あなたのためにお生まれになった救い主イエス・キリスト~
1.救い主誕生の知らせを最初に告げられた羊飼い(8節)
 
救い主誕生という最高の知らせを最初に聞いたのは、羊飼いたちでした。
  これは羊飼いたちがすばらしい人物だったからではありません。むしろ羊飼いという職業は、人々から蔑まれるような職業でした。そんな羊飼いたちを神様はお選びになり、救い主誕生の知らせを最初に伝えられました。それは、イエス様が苦しみの中にある人、弱さのうちにある人のためにこそお生まれになったからでした。

2.すべての人を救うためにお生まれになった救い主イエス・キリスト(9節~14節)
  御使いが羊飼いに告げたこと、それは「民全体に与えられる喜びの知らせ」でした。この喜びは最初に羊飼いに、そこからさらにすべての人に与えられるものなのです。
  そして御使いは、この救い主が「飼葉桶に寝ている」と言いました。汚い飼葉桶は、救い主にふさわしくないと思える場所です。しかしこれは、イエス様が私たちの汚れた罪の只中に来てくださり、そこから救ってくださる姿に重なります。 私たち一人ひとりを罪から救うために、救い主イエス様はお生まれになったのです。

3.救い主に会いに行き、主をほめたたえた羊飼い(15節~20節)
  御使いが告げたことを聞いた羊飼いたちは、急いでベツレヘムへと向かいました。夜でしたが、羊飼いたちは一刻も早く救い主に会いたいと思ったのです。
  赤ちゃんを捜し当てた羊飼いたちは、自分たちに告げられたことを人々にも知らせました。そして御使いの話の通りに、自分たちのために救い主が誕生したことを知った羊飼いたちは、喜びと感謝のうちに神様をあがめ、賛美しながら帰って行きました。

願い

 救い主イエス様は私のため、あなたのために生まれてくださいました。どうか今あなたも救い主イエス様のお誕生を信じることができますように。そして心から神様をあがめ、賛美することができますように。 


 ―今週のみことば―
 「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、 大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために 救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがた は、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、 あなたがたのためのしるしです。」

 ルカの福音書2章10~12節 


12月31日

聖書箇所:ルカの福音書2章8節から20節
説教題:「苦しみの時の助け」


テーマ ~苦しみのときの助け、救い主である主に信頼する~
 1.私たちの叫びを聞き、救ってくださった主(1~3節)
  ダビデは、助けを求める叫びを主が聞いてくださり救われた喜びを歌いました。それは私たちの喜びでもあります。いくらもがいても抜け出せない罪の泥沼から、主は私たちを救い出してくださいました。
  また主は賛美を授けてくださいました。賛美もまた、主から与えられたものなのです。そして主のみわざを覚えるとき、人々は主に信頼するのだとダビデは言います。

2.主の救いのすばらしさ(4~10節)
  人に頼らず、主に信頼する者は幸いだとダビデは言います。それは主に信頼する者は決して失望しないからです。主のみわざは数えることができないほど多く、神様に並ぶ者は誰もいません。それにもかかわらず、主はいけにえやささげ物をお求めになりませんでした。主は主のみこころに従うことをこそ喜ばれます。
  それゆえダビデは「あなたの義とあなたの真実、あなたの救いを人々に言い表します」と言いました。私たちの義さによって救いがもたらされたのではなく、主がご自身の義のゆえに救いをもたらしてくださいました。また救いはただ主のめぐみとまことによってもたらされたものです。まさに救いは主のものであり、主ご自身によって私たちは救われたのです。

3.苦しみのとき、救い出してくださる主(16節)
  続けてダビデは主に助けを求める祈りをささげています。「救いは主のもの」。このことを知るからこそ、ダビデは主に助けを求めました。そして主は必ず応えてくださる方だとダビデは告白しました。主が私たちを助けてくださる方だと知り、主に信頼するからこそ、私たちも主に心から助けを願い求めるのです。

感謝

  ただ主によって私たちは救われました。救いは主のものであることを覚え、主に感謝したいと思います。そして主は私たちを苦しみの中から救ってくださる方であることを信じ、ただ主に信頼していきたいと思います。 


 ―今週のみことば―
私は苦しむ者 貧しい者です。 主が私を顧みてくださいますように。 あなたは私の助け 私を救い出す方。 わが神よ 遅れないでください。

 詩篇40篇17節 

2024年1月

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1月7日

聖書箇所:詩篇34篇1節から22節
説教題:「御名をあがめよう」

テーマ ~私たちを苦しみの中から救い出してくださる主に信頼し、主をほめたたえる~
  ダビデはサウル王に命を狙われ、敵であったアビメレクのもとに逃げました。しかしダビデのことを警戒するアビメレクの前で、ダビデは狂ったかのようにふるまわなければなりませんでした。主がおられるのになぜとも思える苦しみの連続の中で、ダビデはこの詩を歌いました。

1.救いを経験したダビデの賛美(1~7節)
  ダビデはいつも主を賛美すると告白し、ともに一つになって主をほめたたえようと人々に呼びかけました。 それはダビデ自身が救いを経験したからです。「苦しみのときに主に叫び求めると、主は聞いてくださった。すべての苦難から主は救ってくださった。だから、あなたも一緒に主を賛美しよう」とダビデは呼びかけるのです。

2.主に身を避け、主を恐れる者の幸い(8~18節)
  続けてダビデは、主がいつくしみ深い方であることを「味わうように」と語りました。主はことばだけでなく、主を恐れる者を実際に救い出してくださるお方なのです。
  また主は正しい人に目を留め、叫びを聞いてくださるお方です。一方で主は悪をなす者どもに敵対し、さばかれるお方でもあります。それゆえ主を恐れ、主に従って歩むようにとダビデは人々を教えました。

3.主により頼む者を贖ってくださる主(19~22節)
  「正しい人には苦しみが多い。しかしはそのすべてから救い出してくださる」とダビデは最後に言いました。主に従って歩んでいこうとするとき、そこには困難があります。しかし主ご自身がそれらすべての苦難から私たちを救い出してくださるのです。

願い

  どんなときにも主は私たちに目を留め、苦しむ者の叫びを聞き、自らの手で私たちを救い出してくださるお方です。どんな苦難の中にあっても、私たちを贖い、救ってくださる主が私たちとともにおられることに感謝し、主をほめたたえることができますように。



 ―今週のみことば―
 私はあらゆるときに をほめたたえる。 私の口には いつも主への賛美がある。 私のたましいはを誇る。 貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。 私とともにをほめよ。 一つになって 御名をあがめよう。

 詩篇34篇1~3節 


1月14日

聖書箇所:ルカの福音書8章19節から21節
説教題:「神の家族」

テーマ ~神様のことばを聞いて行う人の幸い~
1.イエス様に会いに来た母と兄弟たち(19節)
  イエス様に会おうと、母親のマリアとイエス様の弟たちがやって来ました。しかし彼らはイエス様に会うどころか、近寄ることさえできませんでした。イエス様のうわさを聞きつけて、大勢の群衆がみもとに集まっていたからです。

2.人を遣わしてまでイエス様に会おうとしたイエス様の家族(20節)
  そこで家族は、人を遣わしてなんとしてでもイエス様に会おうとしました。「あなたのお母さんやあなたの弟さんたち、あなたの家族が外に立っておられます。あなたに会いたいと来ておられるのです。家族にお会いしたらどうですか」という知らせがイエス様に伝えられました。

 3.イエス様が語られたこと(21節)
  ところが、イエス様は家族に会おうとはされませんでした。それどころかイエス様は驚くことを語られました。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです」とイエス様は仰いました。「神のことばを聞いて行う者こそ、わたしの家族、神の家族なのだ。そして神の家族であるということは、地上の家族のつながり以上にすばらしいものなのだ」とイエス様は人々に語られたのです。
  私たちは罪人であり、神様との関係が断絶し、滅びへと向かっていた者です。そんな私たちのことさえも、私たちが神様のことばを聞いて行う時に、イエス様は「わたしの家族」と呼んでくださり、私たちのことを神の家族として迎え入れてくださるのです。

チャレンジ

  罪人に過ぎない私のこと、あなたのことをイエス様は「わたしの家族」としてくださいます。どうか今あなたも神様のことばに聞き従い、神の家族とされる幸いを味わうことができますように。 



 ―今週のみことば―
しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。 「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」 ルカの福音書8章21節 


1月28日

聖書箇所:ルカの福音書8章22節から25節
説教題:「弱々しい信仰」

テーマ ~どんなときにも神様に信頼する~
1.命の危険を感じ、恐れた弟子たち(22~24節前半)
  ある日のことです。イエス様と弟子たちが、一緒に舟に乗って湖を渡っておられました。すると突風が吹きおろしてきたため、舟が水をかぶって危険な状態になりました。 そこで弟子たちはイエス様に近づいて起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言いました。
  漁師である自分たちでさえ、どうすることもできない。突風のあまりのひどさに、彼らは恐怖で頭がいっぱいになったのです。

2.嵐を静め、弟子たちの信仰を問われたイエス様(24節後半~25節)
  このときなんとイエス様は眠り続けておられました。舟が水をかぶり、漁師である弟子たちが慌てふためく中でもイエス様が寝ておられたのは、神様に心から信頼しておられたからです。
  弟子たちに起こされたイエス様は嵐を静めると、弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と仰いました。「神様への信頼はどこにあるのか」とイエス様は弟子たちに問われたのです。弟子たちの心は、「どうなってしまうのだろう」という不安にとらえられて、恐れが支配していました。しかしイエス様の心は平安で満たされていました。それは「真の神様がともにいてくださる」という神様への信仰、信頼のゆえです。
  そしてイエス様はことばによって実際に風と荒波を従えることによって、神の御子としてのご自分の力を現わしてくださり、神様にどこまでも信頼するようにと弟子たちを招かれました。

願い
  私たちが信じている神様は天地万物を造られた方、自然を支配しておられるお方です。この方がいつも私たちとともにいてくださいます。

  たとえどんな苦難の中を通ったとしても、神様がともにいてくださることを信じ、神様に信頼したいと願わされます。 



 ―今週のみことば―
イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。 弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、 いったいこの方はどういう方なのだろうか。」 ルカの福音書8章25節 

2024年2月

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2月4日

聖書箇所:ルカの福音書8章26節から39節
説教題:「イエス様に従う」

テーマ ~遣わされている場所で、主を証しする~
 1.悪霊につかれた人を救ってくださったイエス様(26~33節)
  ゲラサ人の地に着いたイエス様をお迎えしたのは、悪霊につかれた男でした。悪霊のゆえに彼は長い間、服も身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいました。人々もそのあまりのひどさに彼を鎖と足かせでつないで、監視していました。しかしそれでも悪霊はこの男をとらえ、鎖を断ち切っては、荒野に駆り立てていたのです。苦しみのただ中に、この男はいました。
  この男はイエス様の御前にひれ伏して「いと高き神の子イエスよ」と言いつつも「私を苦しめないでください」と言いました。悪霊はイエス様を恐れたのです。なぜなら神の御子であるイエス様には、悪霊に命じて破滅させる力と権威があるからです。
  イエス様は、ことばによって悪霊を追い出し、悪霊に苦しんでいた男の人を救ってくださいました。

2.主の証し人として悪霊につかれていた男を遣わされたイエス様(34~39節)
  今日の出来事はここで終わりませんでした。町の人々が様子を見にやって来たのです。あまりの出来事に恐れを抱いた町の人々は、イエス様に出て行ってほしいと願いました。それに対してイエス様はなんとそのまま帰ろうとされました。
  イエス様がすんなりと帰ろうとされたのは、救われたこの男の人をイエス様が証し人として立てられたからでしょう。イエス様は悪霊につかれていた男に「家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて話して聞かせなさい」と仰いました。「あなたが人々に証しをするのです」とイエス様はこの男を証し人として立て、遣わされたのです。

チャレンジ

  私たち一人ひとりも、イエス様によって救われ、それぞれの場へと遣わされています。神様はあなたを選び、その場へと遣わしてくださっているのです。まずこのことに感謝しましょう。そして、悪霊につかれた男が、イエス様がしてくださったことをすべて証ししたように、私たちもイエス様の救いのみわざを証ししたいと思います。 


―今週のみことば―

悪霊が去ったその人は、お供をしたいとしきりに願った。しかし、イエスはこう言っ て彼を帰された。「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、 話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったこと

をすべて、町中に言い広めた。 ルカの福音書8章38~39節 


2月11日

聖書箇所:ルカの福音書8章43節から48節
説教題:「あなたの信仰があなたを救った」

テーマ ~私たちの小さな信仰を喜び、救ってくださるイエス様~
1.苦しみの中、隠れてイエス様に触れた長血をわずらった女(43~44節)
  移動にも窮するほどたくさんの人々がイエス様に押し寄せている中で、今日の出来事は起こりました。人々の中に十二年も前から長血をわずらっている女がいました。この女性は、「汚れている」と人々から避けられ、断絶と孤独の中にいました。
  女性は、「うしろから」イエス様に近づきました。たくさんの人々に紛れて、わからないように隠れてイエス様に近づいたのです。近づいた彼女は、イエス様の衣の房に触れました。するとなんと、彼女は癒されました。長い間誰も治すことができなかった長血が、イエス様の衣の房に触れただけで、またたくまに癒されたのです。

2.女の信仰を受け入れ、救ってくださったイエス様(45~48節)
  十二年もの間苦しんでいた長血が癒されたというその感動のさなか、イエス様が「わたしにさわったのは、だれですか」と仰いました。とっさに彼女は自分がイエス様にさわったことを隠そうとします。
  しかしもう一度、イエス様はだれがさわったのか尋ねられました。ご自分にさわったその人にどうしても会いたいとイエス様は思われたのです。
  イエス様が会おうとされたのは、この女性に救いのメッセージを伝えるためでした。「あなたは単に長血が癒されただけではない。あなたは救われたのだ」とイエス様は救いを宣言されました。
  イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と仰いました。この女性の信仰。それは、周りの人を恐れ、隠してしまうような弱いものだったかもしれません。しかし、イエス様に頼ったその小さな一歩を、イエス様は喜んで受け入れてくださったのです。

チャレンジ

イエス様は私たちのとるに足りないような信仰も喜んで受け入れ、救ってくださいます。今、私たちもイエス様を信じる一歩を踏み出しましょう。 


―今週のみことば―

イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」ルカの福音書8章48節



2月18日 

聖書箇所:士師記8章1節から17節
説教題:「主の目にかなう歩み」

テーマ ~クリスチャンの行動原理~
1.主の御前にへりくだり、エフライムの人々を諭したギデオン(1~3節)
  戦いに勝利したギデオンに、エフライムの人々が激しく言い寄りました。彼らが問題にしたのは、自分たちが戦いの時に呼ばれなかったということでした。プライドを傷つけられ、ギデオンを妬む思いをエフライムの人々は抱いたのです。
  それに対してギデオンは「自分よりもエフライムの人々が得た戦果の方が素晴らしいものではありませんか」と諭しました。このようにギデオンが言うことができたのは、彼が主の御前にへりくだっていたからです。ミディアン人に勝利することができたのは、ただただ主によるのだということを、ギデオンは知っていたのです。そしてさらにギデオンは、戦果もまた主が与えてくださったものではないかと語り、人々の目を主へと向けさせました。

2.主に信頼しなかった人々に厳しく報いたギデオン(4~17節)
  主に目を向け一致団結したギデオンと兵士たちは追撃を続けましたが、疲労はピークでした。そこでギデオンは同胞のスコテの人々に食料の援助を求めました。
  しかしスコテの首長たちの反応は冷たいものでした。とうていミディアン人に勝てっこないと彼らは考えたのです。
  スコテの首長たちに対してギデオンは「茨やとげで打ちのめす」という厳しい対応をしました。それはスコテの首長たちが主に信頼せず、主が勝利をもたらしてくださるということを信じなかったからでした。主を侮った人々の不信仰をギデオンは見逃さなかったのです。

願い
  次々と起こる問題に、ギデオンは時に相手を励まし主へと目を向けさせることで、また時に不信仰を見逃さず、厳しい態度をもって答えることで、対処しました。ギデオンの判断基準、行動基準は「主の目から見てどうか」にありました。

  イエス様を信じ救われた私たちも、自分のために生きるのではなく、主の栄光のために生きる者へと変えられました。どんな困難の中にあっても、私たちの歩みの一歩一歩が、主の栄光を現わすためのもの、主に喜ばれるものになりますように。


―今週のみことば―

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。  ガラテヤ人への手紙2章20節 


2月25日 

聖書箇所:ルカの福音書8章40節から42節、49節から56節
説教題:「恐れないで、ただ信じなさい」


テーマ ~死からさえも救ってくださる方、イエス様~
1.一人娘の癒しを信じ、イエス様に懇願した会堂司(40~42節)
  ヤイロという会堂司がイエス様の足もとにひざまずいて、自分の家に来ていただきたいと懇願しました。彼の大事な一人娘が今にも死にそうになっていたからです。会堂司はイエス様なら娘を癒すことができると信じ、イエス様に頼りました。

2.娘の死に直面した会堂司を励まされたイエス様(49~50節)
  ところが、会堂司の家に向かう途中で「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません」という知らせが告げられました。「死んでしまってはもう手遅れだ」。そんな諦めがにじむ、悲しい知らせでした。
  娘の死に直面し、無力さを覚えて死を恐れた会堂司に、イエス様は「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます」と仰いました。「あなたは、わたしなら娘を癒すことができると信じわたしのもとに来たのでしょう。死を恐れずに、わたしを信じなさい。そうすればあなたの娘は死から救われる」とイエス様は会堂司を励ましてくださったのです。

3.少女を死から救い出してくださったイエス様(49~56節)
  イエス様が会堂司の家に着いた時、人々は泣き悲しんでいました。少女は確かに死んでいたのです。
  しかしイエス様は少女の手を取って「子よ、起きなさい」と叫ばれました。すると、少女の霊が戻り、少女はただちに起き上がりました。少女は生き返ったのです。イエス様は、人を死からさえも救うことができるお方、救い主なのです。

願い

  神の御子であるイエス様は、死からさえも私たちを救うことができるお方、救い主です。そしてイエス様は、イエス様を信頼し切れず恐れてしまう私たちに「ただ信じなさい」と励ましてくださるお方です。どうか今、あなたもイエス様に信頼し、イエス様を本当の救い主と信じることができますように。 



―今週のみことば―

イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さん は亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」 これを聞いてイエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」 ルカの福音書8章49~50節 

2024年3月

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3月3日

聖書箇所:ルカの福音書9章1節から6節
説教題:「弟子たちを遣わされた目的」

テーマ ~私たち一人ひとりを福音宣教のため遣わしてくださっているイエス様~
1.力と権威を授け、弟子たちを遣わされたイエス様(1~2節)
  イエス様は十二弟子を呼び集められると、悪霊を追い出し病を癒す力と権威を彼らに授け、弟子たちを遣わされました。弟子たちを遣わされた目的は「神の国を宣べ伝え、病人を治すため」でした。
  神の国を宣べ伝え、病人を治すという働きは、これまでイエス様がなさってきたことです。弟子たち一人ひとりは弱さを持つ者でした。しかしそんな弟子たちをイエス様はご自分の働きを担うようにと遣わされたのです。

2.宣教のみわざが主のものであることを教えられたイエス様(3~5節)
  イエス様は弟子たちを遣わされる際、三つのことを仰いました。
  一つ目はただイエス様に信頼しなさいということです。神の国を宣べ伝え、病を治すという働きは、主ご自身のみわざであり、その必要は主ご自身が満たしてくださるものです。だからただ主に信頼しなさいとイエス様は仰いました。
  二つ目はイエス様によって遣わされていることを覚えるということです。福音を宣べ伝えるその働きの中にあって、いつもイエス様によって遣わされていることを覚えなさいとイエス様は仰いました。
  三つめは証しし続けなさいということです。残念ながら福音を受けれない人々がいます。しかしそれでも次の町へと出て行き証しし続けなさいとイエス様は仰いました。

3.いたるところで福音を宣べ伝えた弟子たち(6節)
  イエス様によって遣わされた弟子たちは、いたるところで福音を宣べ伝え、癒しを行いました。弟子たち一人ひとりは弱さを持つ者でした。しかしイエス様によって遣わされた弟子たちは、自分を通して神様がみわざをなしてくださる幸いを味わいました。

願い

  イエス様は私たち一人ひとりのことも遣わしてくださっています。どうか、福音を宣べ伝える働きがただただ主のみわざであることを覚え、主に信頼することができますように。そして主によって遣わされていることを覚え、周りの人々に主を証しし続けることができますように。 


―今週のみことば―

イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼 らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。 ルカの福音書9章1~2節 


3月10日

聖書箇所:ルカの福音書9章10節から17節
説教題:「イエス様のみわざに与る(あずかる)」

 テーマ ~小さな私たちを用いてみわざを成し遂げてくださる方、イエス様~
1.みわざを続けられたイエス様(10~11節)
  イエス様のもとに戻った使徒たちは、自分たちがしたことをすべて報告しました。すると、イエス様は彼らが主のみわざを覚え、静まる時を持つようにとベツサイダという町に退かれました。
  それを知った群衆が後について来ましたが、イエス様は彼らを喜んで受け入れ、神の国について語り、病を治され、みわざを続けられました。

2.困難を前に主に信頼できなかった弟子たち(12~14節前半)
  日が傾き始めたので、12人がイエス様に「群衆を解散させてください」と言いました。この時、男だけで約五千人の人がいました。その必要を満たすことは到底できないと考えた弟子たちは、群衆が「自分たちで」休む場所、食べるものを確保できるようにしてくださいと願ったのです。
  ところが、そんな弟子たちにイエス様は「あなたがたが、彼らに食べる物を与えなさい」と仰いました。イエス様によって遣わされ、主のみわざを経験した弟子たちでしたが、困難を前に主に信頼することができませんでした。そんな弟子たちに、イエス様は改めて、主がすべての必要を満たしてくださるということを教えようとされたのです。

3.小さなものを用い、みわざを成し遂げてくださるイエス様(14節後半~17節)
  イエス様は弟子たちに命じて人々を座らせ、神様に感謝してパンと魚を配るように弟子たちに渡されました。すると人々は食べて満腹しました。さらに、余ったパン切れを集めると十二かごにもなりました。
  弟子たちは改めて、たとえ足りないと思えるものでも主は用いてくださり、みわざを成し遂げてくださることを知ったのです。

チャレンジ

  主は、小さな私たちのことも用いてみわざを成し遂げてくださるお方です。たとえ私たちの目には不十分に思えても、主の目には十分であり、主は溢れるばかりに満たしてくださいます。どうか今主に信頼し、主を証しし続けることができますように。 


―今週のみことば―

人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。
ルカの福音書9章17節 

 

3月17日

聖書箇所:士師記8章22節から28節
説教題:「ギデオンが陥った罠」


テーマ ~主から目を逸らさせるものを捨て、主の御前にへりくだって仕える~
1.主の御前にへりくだっていたギデオン(22~23節)
  イスラエル人がギデオンに「あなたも、あなたの子も孫も、私たちを治めてください」と言いました。
  普通であれば喜んで受けるような申し出でしたが、ギデオンはその申し出を断りました。さらにギデオンは「『主が』あなたがたを治められます」と言いました。ミディアン人の手から救い出してくださったのが主であるということをよく知っていたギデオンは、人々の目を主に向けさせたのです。

2.ギデオンが陥った罠(24~27節)
  ところがギデオンは「分捕り物の耳輪を下さい」というお願いをしました。これを聞いた人々は上着を広げて次々と耳輪を投げ入れたので、大量の金が集まりました。するとギデオンはそれでエポデを一つ作りました。
  ギデオンがエポデを作ったのは、自分が主によって士師として選ばれ、勝利を得ることができたという記念のためだったと思われます。主の御前にへりくだっていたはずのギデオンでしたが、そんな彼にも自らを誇ってしまう弱さがあったのです。
  このエポデは「罠」となりました。イスラエルの人々は、主にではなく金でできた立派なエポデに目を奪われ、主が忌み嫌われることを行うようになってしまいました。

3.弱さのあるギデオンを立て、イスラエルに平和を与えてくださった主(28節)
  主によって士師として立てられたギデオンでしたが、彼は決して完璧な人ではありませんでした。彼もまた自分を誇ってしまう弱さがある罪人でした。しかしそんなギデオンを主は用いてイスラエルを救い、四十年もの間平和を与えてくださったのです。

願い

  ギデオンが弱さのうちに失敗した姿は、私たち自身の姿でもあります。今、私たちを主から引き離すものがあれば、それを捨て去りたいと思います。そして主の御前にへりくだり、ただ主に仕えていきたいと願わされます。 



―今週のみことば―

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは 取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。

ルカの福音書17章10節 


3月24日

聖書箇所:ルカの福音書23章39節から43節
説教題:「私のために」


テーマ ~十字架にかかり苦しまれた真の救い主、イエス様~
 1.みじめな姿を見てイエス様をののしった一人の犯罪人(39節)
  十字架刑は人々からあざけられ、人としての尊厳を辱められる残酷な刑であり、長く苦しみ続けなければならない刑でした。
  この時イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人が二人いました。そのうちの一人が、イエス様をののしりました。彼は十字架にかけられるイエス様のあまりのみじめさ、弱々しさを見て「お前は救い主などではないのだ」とののしったのです。

2.イエス様をキリストと信じた、もう一人の犯罪人(40~42節)
  ところが、もう一人の犯罪人が彼をたしなめました。この犯罪人は自分の罪を認め、その罪のために自分たちは十字架にかけられているのだと言いました。
  「しかしこの方は違う。イエス様には何の罪もない」と彼は続けて言いました。イエス様が黙って十字架にかけられている姿、そればかりか人々の赦しを求めるその姿を通して、彼はイエス様こそ真の救い主なのだと知ったのです。
  何の罪もないのに、十字架にかかり苦しまれたイエス様。これこそが聖書が語る真の救い主の姿です。
  そして何の罪もないイエス様を前に、自分の罪深さを知ったこの犯罪人は心砕かれて「私は罪人に過ぎません。でもどうか私を思い出してください」と言いました。

3.信じる者を救ってくださる真の救い主イエス様(43節)
  そんな犯罪人にイエス様は「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいる」と仰いました。自らの罪を認め、へりくだった犯罪人に、イエス様は「ともにいる」と仰り、救いを宣言してくださったのです。

チャレンジ
  聖書が語る救い主、それは私たちの代わりに罪とされ、十字架にかかって苦しまれたイエス様です。

  イエス様が苦しみを味わってくださったのは、私のため、あなたのためです。どうか今、あなたもイエス様を救い主と信じることができますように。 



―今週のみことば―
神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

コリント人への手紙第二5章21節 


3月31日

聖書箇所:ルカの福音書24章1節から12節
説教題:「今も生きておられるお方」

 

テーマ ~イエス様がよみがえられたことを知らされた幸い~
1.死なれたイエス様のお墓に来た女性たち(1~4節)
  イエス様が墓に納められる様子を、女たちが見ていました。しかしこの時ちょうど安息日が始まろうとしていたため、日を改めて、週の初めの日の明け方早くに彼女たちは墓にやって来ました。たとえ亡骸でも、少しでも早くイエス様にお会いして、香料を塗ってあげたいと思ったのです。
  ところが、女たちがやって来ると、石が墓から転がされていてイエス様のからだが見つかりませんでした。絶望と悲しみの中にいた彼女たちは、あまりのことに途方に暮れてしまいました。

2.イエス様がよみがえられたことを告げた御使い(5~7節)
  するとまばゆいばかりの衣を着た御使いが「どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」と告げました。十字架にかかり死なれたイエス様は、よみがえられ、今も生きておられるのだと言うのです。
  そしてさらに御使いは、イエス様ご自身、ご自分がよみがえられるということを前から仰っていたではないかと言いました。イエス様はご自分が苦しまれ、十字架にかけられて殺されること、そして三日目によみがえるということを弟子たちに明らかにしておられました。そして今まさにそのことばどおりに、イエス様はよみがえられたのです。

3.イエス様がよみがえられたことを伝えた女性たち(8~12節)
  女性たちは良い知らせを十一人の使徒たちとほかの人たち全員に報告しました。喜びを分かち合わずにはいられなかったのです。
  しかし、その話を彼らは信じませんでした。使徒たちでさえも、死人がよみがえるなんていうことは、最初は信じることができなかったのです。ペテロは自ら墓に走って行き、この出来事を確かめました。

感謝

  最初は信じなかった弟子たちも、神様によって目を開かれ、イエス様がよみがえられたことを信じることができました。
  女性たちが人々に伝えたことで、イエス様がよみがえられたことは全世界へと伝えられ、今私たちもイエス様がよみがえられた喜びを知らされています。この幸いに感謝し、私たちもよみがえられたイエス様を人々に伝えましょう。 


―今週のみことば―
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」 ルカの福音書24章5節後半~7節 

2022年4月

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 4月3日

聖書箇所:イザヤ書53章1節から6節
説教題:「私の咎のため」

  ~救い主であるイエス様の苦難とその理由~
 1.救い主到来の預言をだれが信じたか(1節)
  人々は救いをもたらす方、イエス様を信じませんでした。人々はなぜイエス様を信じなかったのでしょうか。

2.弱々しい姿でお生まれになり、蔑まれたイエス様(2-3節)
  人々が救い主の到来を信じなかった理由はイエス様のお姿にありました。
  「救い主」という言葉に対して抱く普通のイメージは力強くリーダーシップをとり、人々を導くというようなものかもしれません。ですがイエス様はそれとは正反対のあまりにも弱々しい姿でした。イエス様は無力な赤ん坊としてこの地上に来られました。誰もこの赤ん坊が救い主だと信じず、蔑みました。

3.救い主であるイエス様が苦しまれた理由 ~私たちの咎のため~(4-6節)
  救い主がなぜこのように人々から蔑まれ、苦しまなければならなかったのか、その理由が4節から6節で語られます。
  人々は、イエス様は神様によって罰せられているのだと思いました。しかし、イエス様が苦しまれたのは「私たちの」背きのため、「私たちの」咎のためでした。自業自得などではなく、私たちの背き、咎のためにイエス様は十字架で死なれたのです。そしてこのイエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらしました。懲らしめられたのは「彼」、イエス様ですがその恩恵、平安に与ったのは私たちです。
  更に驚くべきことが6節で語られます。「しかし主は」とあるように主は私たちを見捨てず、なんと救い主であるイエス様に私たちの咎を背負わせられたのです。イエス様が私たちの咎を背負ってくださったのは、神様のみわざであったと言うのです。
  ここに私たちの救いの源があります。イエス様が私の罪の身代わりとして死なれました。そしてそのようにしてくださったのは神様です。ここに神様の愛が表されているのです。

チャレンジ!
  「救い主であるイエス様は私の咎のために苦しまれたのだ」このことを覚え、神様  に感謝して一日一日を過ごしていきましょう。

 ―今週のみことば―
  私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 イザヤ書53章6節 



4月10日

聖書箇所:イザヤ書53章7節から9節
説教題:「沈黙の意味」
 

 ~イエス様の苦しみと沈黙の意味~
1.苦しみの中、沈黙されたイエス様(7節)
  救いをもたらす救い主が痛めつけられ、苦しまれるのだとイザヤは言います。この姿はイエス様が人々に捕らえられた際、痛めつけられた出来事と重なります。  ですが、イエス様は苦しみに対して沈黙しておられました。なぜ、イエス様は沈黙されたのでしょうか。

2.苦しみによってもたらされるものを知っておられたイエス様(8節)
  イエス様が沈黙された一つ目の理由は「イエス様がご自分が死ぬことでもたらされる救いを知っておられたから」です。
  イエス様が苦しまれたのは、民の背きのためでした。人々が神様に背を向けたその罪の身代わりとしてイエス様は打たれ、死なれたのでした。そしてイエス様はご自分  が死なれることで人々に救いがもたらされることをご存知でした。
  ですからイエス様は苦しみの中においても黙っておられました。苦しみの中の沈黙は、イエス様こそ真の救い主であるという証です。

3.死に至るまで神様のみこころに従われたイエス様(9節)
  なぜイエス様は沈黙されたのか、もう一つの理由は「イエス様が神様のみこころにどこまでも従順であられたから」です。
  父なる神様は私たちを救うために御子であるイエス様を死に渡され、また御子であるイエス様もその父なる神様のみこころに従われました。だからこそ、イエス様は苦しみの中でも沈黙されたのです。イエス様の沈黙は、神様への従順の表れだったのです。

祈り
  どうか、私たちの罪の身代わりとなって死なれることをよしとしてくださったイエス様に、感謝しつつ一日一日を過ごすことができますように。また、イエス様が、実に死にいたるまで神様のみこころに従順であられたことを覚えつつ、過ごすことができますように。

―今週のみことば―
  彼は痛めつけられ、苦しんだ。  だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。イザヤ書53章7節



4月17日

聖書箇所:イザヤ書53章10節から12節
説教題:「十字架の死と勝利」
 

~私たちの罪を負ってくださり、とりなしてくださる方がいる喜び~
1.主のみこころはイエス様が苦しみ死なれることだった(10節)
  神様は、イエス様が死なれることによって私たちに罪の赦しがもたらされることを 望まれました。この罪の赦しは、イエス様が自分のいのちを代償のささげ物にする時  にもたらされるものです。
  「代償のささげ物」とは、罪のゆえに罰せられる自分の代わりに、雄羊をささげる  ことで罪の赦しを得るものです。全く罪のないお方、神様のひとり子であるイエス様が、私たちすべての者の罪を背負って下さり死なれたことで、私たちに完全な赦しが  与えられるのです。

2.主のみこころに従い、苦しみのあとを見て満足されるイエス様(11節)
  イエス様は、ご自分の苦しみのあとを見て満足されました。それは苦しみのあとが、主のみこころに最後まで従われた証拠だったからです。
  またイエス様が満足されたのは、ご自分の死が、罪の赦しをもたらすことを知っておられたからでした。イエス様が主のみこころに従われ、私たちの咎を負ってくださったことで、私たちは罪赦され、義とされたのです。

3.私たちの罪を負い、とりなしてくださるイエス様(12節)
  イエス様は、三日目によみがえられました。イエス様は、死にさえも勝利されたのです。私たちがイースターをお祝いするのは、イエス様が私たちの罪の身代わりとなって死なれたためであり、死にさえも勝利されたからです。
 そしてよみがえられたイエス様は、私たちのためにとりなしをしてくださいます。本来その罪のゆえに神様と断絶関係にあった私たちですが、イエス様が私たちの罪を  負ってくださり、とりなしてくださることで、神様との関係が回復させられたのです。

感謝 
「私たちの罪を負い、とりなしをしてくださる方、イエス様が復活された。」

 このことをともに喜び、祝いましょう♪ 

 

―今週のみことば―
 それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。イザヤ書53章12節 

2022年5月

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5月1日

聖書個所:ルカの福音書1章1節から4節
説教題:「福音の確かさ」
 

テーマ~ ルカの福音書の目的 ~あなたに福音の確かさを知ってもらうため~
 1.福音は多くの人がまとめようとしているもの(1,2節)
  ルカの福音書は、医者であり、歴史家であり、神学者であったルカによって書かれました。そして、福音をすでに知っていたテオフィロに向けて書かれたものです。
  福音は、目撃証言によって確認されている、歴史的事実です。当時、この福音を多くの人がまとめようとしていました。福音が人々に知らされ始めていたその最中(さなか)に、ルカはこの福音書を書いたのです。

2.私もあなたに伝えたい(3節)
  多くの人がすでにまとめようとしていたのに、ルカはなぜ改めて、福音を伝えようとしたのでしょうか?  それは、テオフィロを想う気持ちのゆえです。福音を伝えるものが他にあったにもかかわらず、ルカはテオフィロのために福音書を書きました。
  そのため、福音がよくわかるように、ルカは「順序立てて」書いています。ルカの福音書は、バプテスマのヨハネとイエス様を比べるように書かれています。そのことによって、イエス様こそ真の救い主であると論証しているのです。

3.福音の確かさを知ってもらうため(4節)
   ルカは福音の確かさを知ってほしいと願い、この福音書を書きました。テオフィロに救われてほしいというルカの想いが、冒頭の数節に込められています。

 チャレンジ
  ルカはすでに多くの人がまとめているにも関わらず、テオフィロのためにこの福音書を書きました。一人の魂の救いを願って福音書を書いたのです。
  私たちも、福音を知り救われた者として、まだこの福音を知らない人々に、家族、友人、近所の方々、この地域の方々に福音を宣べ伝える者とならせていただきたいと心から願わされます。


―今週のみことば―

 それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。 ルカの福音書1章4節 




5月8日

聖書個所:ルカの福音書1章5節から25節
説教題:「主が目を留めてくださった」

テーマ ~私たちの祈りを聞き、願いを越えて働かれる主~
 1.ザカリヤ、エリサベツ夫婦の願い(5~7節)
  ザカリヤとエリサベツ夫婦は、二人ともが祭司の家系であり、神様の前に正しいと言われるほどの人物でした。そんな二人にも、一つだけ、大きな悩みがありました。それは、子どもがいなかったということです。
  二人は子どもが与えられるよう、ずっと祈ってきました。ですがそんな祈りも空しく、二人は年を取り、もはや、子どもが与えられる望みもなくなっていました。

2.夫婦の願いを聞き届けてくださった主(8~13節)
  そんな中、主の使いが現れて言いました。「あなたの願いが聞き入れられたのです」と。「長年祈り続けてきた祈りを主は聞いてくださった、その願いが叶えられるのです」という喜びを告げる言葉を御使いは告げたのです。

3.私たちの思いを越えて働かれる主(14~25節)
  子どもが与えられるという御告げは、神様が約束してくださっていた救い主の到来という、素晴らしい預言の成就を告げるものでもありました。
  主はザカリヤ夫婦の祈りを聞き届けられ、子どもを与えられました。それだけでなく、主はザカリヤ夫婦の願いを遥かに越えて、救い主の到来という主のご計画のために、ザカリヤ夫婦の祈りを用いてくださったのです。
  御使いの言葉通りに、エリサベツは身ごもりました。エリサベツは、「主は私たちに目を留めてくださり、祈りを聞き届けてくださる方なのだ」と自分が身ごもったのが主のみわざのゆえであることを告白しました。

チャレンジ
  主は、ザカリヤとエリサベツの祈りを聞き届けてくださいました。そればかりではありません。夫婦に与えられた子どもであるヨハネは、救い主であるイエス様の到来の道備えをするために、遣わされました。ヨハネの誕生の御告げには、私たちの想いを越えた素晴らしい主のご計画があったのです。

 主は、確かに、私たちの願いを聞き届けてくださるお方です。それどころか、主は私たちの願いを遥かに超えて働いてくださり、祝福を与えてくださるお方なのです!私たちもまた、主に期待し、これからも祈り続けたいと思います。 


 

―今週のみことば― 

 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にいていた。 ルカの福音書1章24,25節 



5月15日

聖書個所:ルカの福音書1章26節から38節
説教題:「神に不可能なことはない」

 テーマ ~神の子であり、王であるイエス様の処女降誕~
1.処女マリアのもとに来た御使いガブリエル(26~29節)
  ザカリヤとエリサベツ夫婦のところに遣わされたガブリエルがもう一度、神様から遣わされました。御使いが遣わされたのは、一人の処女のところでした。この処女の名前はマリアと言い、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけでした。  御使いは、マリアに対して「おめでとう、恵まれた方」と言いました。これから、一体何が告げられるのだろうと、マリアは戸惑いながら、御使いの言葉の意味をじっくり考えました。

2.御使いが告げたこと ~神の子であり、真の王であるイエス様の誕生予告~(30~34節)
  御使いは、神様の恵みによって、マリアが処女のまま妊娠し出産するという、信じられないようなことを告げました。なぜ処女が身ごもるということが、神様からの恵みなのでしょうか。
  それは、イエス様が神様の子どもであり、真の王様だからです。「神様の子どもを、あなたは身ごもるのです。それは神様からの恵みなのです」と御使いは言うのです。  この御使いの言葉に対し、マリアは「どうしてそのようなことが起こるのでしょうか」と御使いに尋ねました。

3.神様への信頼(35~38節)
  マリアの問いに対して、御使いは「神様の力、神様のみわざによって」あなたは身ごもるのですと言いました。  私たちはどうしても、自分自身の理解、常識で物事を測ってしまいがちです。そして自分の理解や常識から外れることは信じられないと考えてしまいます。ですが、神様には不可能なことはありません。処女が身ごもるという、奇跡としか言いようがないこの出来事もまた、神様には可能なことなのです。  御使いの言葉を聞いたマリアは「私は主のはしためです。どうぞ、おことばどおりこの身になりますように」と言いました。「神様に不可能なことはない」という、神様への信頼のゆえの言葉です。

チャレンジ
  イエス様の処女降誕は神様にしかできない奇跡です。この出来事そのものが、イエス様が神様の子どもであるということを証明しているのです。

 あなたも、神様に不可能なことは何もないのだと受け入れ、この出来事を信じませんか。イエス様が神様の子どもであり、真の王であることをあなたも信じることができますように。 


 

―今週のみことば―

  神にとって不可能なことは何もありません。 ルカの福音書1章37節 


 

5月22日

聖書個所:士師記1章1節から7節
説教題:「主に尋ねた」

 テーマ ~ 士師記にあふれる主の憐み
1.イスラエルの民の祈り(1~2節)
  「ヨシュアの死後」とあるように、この記事は、ここまでイスラエルの民を指導してきたリーダーであるヨシュアが死んだ後のことです。
  イスラエルの民は、これからの戦いについて、主に尋ねました。主に尋ねたイスラエルの民の姿勢は、素晴らしいものにも思えます。ですが、イスラエルの民の祈りは、主への信頼からの祈りではなく、自分以外の人に戦いに行ってほしいというものだったようです。
  それでも、主は戦いの勝利を宣言されました。戦いはこれからのことでしたが、確実なこととして、主は「勝利した」と言われました。

2.主に信頼しきれなかったユダ(族)と主の憐みによる勝利(3~4節)
  ですが、ユダは主のことばを信頼しきれませんでした。ヨシュアが死んで間もない時であったと思われますが、すでに主への信頼が揺らぎ始めていたのです。
  それにもかかわらず、主は彼らに勝利を与えてくださいました。この勝利はただただ主の憐みによる勝利でした。

3.ユダ(族)とシメオン(族)によるむごい仕打ちと、ベゼクの言葉(5~7節)
  話はここで終わりではありませんでした。ユダとシメオンはなんともむごいことをします。主によってもたらされた勝利は、後味の悪いものとなりました。  そして、このような仕打ちを受けたアドニ・ベゼクは、自分が捕まり親指を切り落とされたのは、自業自得なのだと思いました。
  一見すると、彼の言葉は的を得ているように思えます。ですが、神様は正しく裁かれる方であると同時に、私たちが悔い改め、主に立ち返る時、私たちを喜んで受け入れてくださるお方です。

チャレンジ
  この記事は、なんとも後味の悪いものにも思えます。ですがそこには、神様の深い憐れみがあります。主から離れ、堕落した民を、主は見捨てませんでした。民が悔い改めて主に立ち返る時、喜んで受け入れてくださる神様の深い憐れみが、士師記には溢れているのです。

 私たちもまた、主から離れてしまうようなことがあるかもしれません。ですが、主はそんな私たちを見捨てず、あわれんでくださるお方です。憐れみを与え続けてくださる神様に感謝しつつ、日々歩んでいきましょう。 

 

―今週のみことば― 

 すると、は言われた。「ユダが上って行くべきである。見よ、わたしはその地を彼の手に渡した。」 士師記1章2節 

2022年6月

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6月5日

聖書個所:使徒の働き2章1節から12節
説教題:「約束の成就」

 テーマ 世界中の人々にイエス様を証する者へ
 1.聖霊が与えられるというイエス様の約束
  弟子たちは、聖霊が与えられるというイエス様の約束を信じ、聖霊を待ち望んでいました。
  聖霊が弟子たちに与えられたのは、五旬節の日のことでした。五旬節というのは、ユダヤ教の三大祭りの一つで、特別な時でした。聖霊は、神様のご計画の時が満ちて弟子たちに臨まれたのです。

2.イエス様の約束通り、聖霊が臨まれた(2~4節)
  聖霊は「激しい風が吹いて来たような響きが起こり、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまる」という、目に見える現象を伴って与えられました。
  旧約聖書において風や炎という現象は、神様がおられるという、臨在を表しています。聖霊が目に見える現象を伴って与えられたのも、同じように臨在を表しているのでしょう。 さらに聖霊は「分かれて、一人ひとりの上にとどまり」ました。同じ一つの御霊が分かれて、一人ひとりの上にとどまりました。このことから、私たち一人ひとりに与えられている聖霊も、同じ一つの御霊であるということがわかります。弟子たちに与えられたのと同じ聖霊が、私たちにも与えられているのです。
  そして、聖霊が弟子たちの上に臨んだ結果「皆が御霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始め」ました。このことこそ、聖霊が臨まれたことの中で、一番大事なことです。イエス様が捕らえられた時、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げていきました。そんな弟子たちが、聖霊が臨まれたことによって、イエス様のことを証する者へと変えられたのです。

3.世界中の人々にイエス様のことが証された(5~13節)
  天下のあらゆる国の人々が、この出来事を目撃しました。世界中の人々が一堂に集まる時を、神様は選ばれたのです。ですが、この素晴らしい出来事を見ても、信じずに、嘲る人たちがいました。

チャレンジ
  イエス様の約束が成就したことによって、福音は全世界に宣べ伝えられていきました。聖霊が臨まれたことで弟子たちは変えられ、世界中の人々にイエス様のことを証しました。そしてその結果、私たちのもとにも、福音は宣べ伝えられたのです。

 弟子たちに与えられたのと同じ聖霊が私たちにも与えられています。どうかますます、イエス様のことを人々に証する者へとなっていくことができますように。 



―今週のみことば―

  しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エル サレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 使徒の働き1章8節 




6月12日

聖書個所:ルカの福音書1章39節から45節
説教題:「幸いな人」

テーマ 主に信頼する者に与えられる幸い
 1.エリサベツに会いに行ったマリア(39節)
  御告げを聞いたマリアは、「急いで」エリサベツに会いに行きました。この言葉には、エリサベツに会いたいという、マリアの熱心さが込められています。
 マリアが告げられたことに共感できる人は、似たような経験をしたエリサベツしかいません。ですから、マリアは何としてでもエリサベツに会おうとしたのです。

2.聖霊に満たされたエリサベツが告げたこと(40~45節)
 
マリアのあいさつを聞いたとき、エリサベツの胎内で子どもが踊り、エリサベツは聖霊に満たされました。
 エリサベツが語ったことは、喜びに溢れた祝福の言葉であると同時に、御使いが告げたことと同じ内容でした。これらの言葉を聞いたマリアは励まされ、御使いに告げられたことを、よりはっきりと確信したことでしょう。
 しかも、エリサベツは続けて「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」と言いました。信じた人とは、マリアのことです。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と、マリアは御使いが告げた神様のことばを信じました。そんなマリアのことを、エリサベツは、幸いだと言ったのです。
 この幸いとは、神様から与えられる平安です。神様が与えてくださるこの平安は、決して揺るがないものです。神様は、ご自分のことばを決して変えないお方だからです。私たちが普段考える幸せは、ちょっとしたことで崩れてしまうものかもしれません。ですが、神様から与えられる幸いは、決して揺るがないものなのです。
  エリサベツは、この平安、すなわち神様から与えられている揺るがない平安が、マリアに与えられていることを指して、あなたは幸いですと言ったのです。

感謝

 神様のことばを信じた者に、この平安は与えられます。神様のことを信じる私たちにも、この平安は与えられているのです。揺るがない平安が私たちにも与えられていることに、感謝しましょう。 



―今週のみことば―   

 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

 ルカの福音書1章45節 




6月19日

聖書個所:士師記1章8節から15節
説教題:「アクサの知恵」

テーマ あわれみを持って私たちのことを見ていてくださる主
 1.変わらないあわれみを注いでくださる主(8~11節)
  今日の箇所の冒頭には、ユダ族が連戦連勝したことが書かれています。この勝利は彼らの力によるものではなく、神様が与えてくださったものでした。
 ここに、主の変わらないあわれみがあります。ユダ族が勝利したのは、主がどこまでも真実な方であり、変わらないあわれみを注いでくださるお方だからこそです。
 このことのゆえに、私たちも主を信じ、日々主に信頼して歩むことができます。また、主があわれんでくださる方だからこそ、私たちはその罪を悔い改め、主に立ち返ることができるのです。

2.カレブの言葉をご自分のご計画に用いられた主のあわれみ(12~15節)
  勢いに乗ったユダ族は、戦い続けました。そんなある時、カレブが「デビルの町を攻め取った者に、自分の娘を妻として与えよう」という提案をしました。この言葉は、神様を頼ってのものではありませんでした。自分たちの力によって勝つんだという気持ちの表れです。
  ところがなんと、このカレブの言葉を、主はご自分のご計画に用いられました。 主はカレブの言葉を用いて下さり、将来士師となるオテニエルに、知恵深い女性であるアクサを与えてくださったのです。この出来事の背後には、カレブの言葉さえも用いられる、主のあわれみがあったのです。

感謝
  これらのことに加えて、もう一つ、主の深いあわれみが表されていることがあります。それは、この出来事が聖書に記されているということです。主に背を向けたイスラエルの民を、主は見放さずに、あわれみを持って見続けていてくださいました。だからこそ、今日の出来事は聖書に記されているのです。

  主は、いつも目を離さずに、あわれみを持って私たちのことを見ていてくださる方なのです。私たちの歩みの一つ一つが、主のあわれみの中にある。このことに感謝したいと思います。 


 

―今週のみことば―

   

 アクサは彼に言った。「どうか私にお祝いを下さい。ネゲブの地を私に下さるの ですから、湧き水を下さい。」そこでカレブは上の泉と下の泉を彼女に与えた。

 士師記1章15節 

2022年7月

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7月3日

聖書個所:ルカの福音書1章46節から56節
説教題:「マリアの賛歌」

  

テーマ マリアの賛歌~主のあわれみによる救いを知って~
 1.主を心の底から賛美したマリア(46節~49節前半)
 
マリアは真の救い主である神様をあがめ、たたえました。それは神様がマリアに目を留めてくださったからです。神様のあわれみと、そのあわれみによってもたらされる救いを知ったマリアは、喜びに溢れ、主を賛美せずにはおれなかったのです。
 罪人であるこんな私のことを、神様は愛し救ってくださった。この神様の愛、あわれみ深さを知る時、私たちも溢れる喜びのゆえに、心から神様を賛美するのではないでしょうか。

2.神様がもたらしてくださる救い(49節後半~53節)
 
続いてマリアは、神様がどのようなお方なのか、どのようにして救いがもたらされるのかを告白しました。
 神様は聖なる方、あわれまれる方であると同時に、力に満ちた方です。そして神様の救いは「権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げる」ということによって、また「飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返す」ということによってもたらされるものなのだとマリアは言いました。
 神様の救いは、心の思いの高ぶる者を打ち倒し、主を恐れる者をそのあわれみによって助けて下さることによって実現するものなのです。

3.あわれみを忘れずにいてくださる主(54節~56節)
  マリアは最後に、この救いがただただ神様のあわれみによるものであることを証ししました。
  あわれみ深い神様は、イスラエルの民への救いの約束を、ずっと忘れずにいてくださいました。神様は、ご自身に背き、離れて行く者さえもあわれみ続けてくださる、真実の愛に満ちたお方なのです。

賛美

 神様は、罪人である私たちのことさえもあわれみ、真実の愛によって愛してくださいました。マリアが心からの喜びを持って主を賛美したように、私たちもまた神様に心からの賛美をおささげしましょう! 



―今週のみことば―

   私のたましいは主をあがめ、  私の霊は私の救い主である神をたたえます。

 ルカの福音書1章46、47節 




7月10日

聖書個所:ルカの福音書1章57節から66節
説教題:「主の御手のわざによって」

救い主イエス様に先立って歩む者ヨハネの誕生
 1.主のあわれみによって与えられた赤ちゃんの誕生(57節~58節)
  年をとっていたエリサベツが赤ちゃんを産むということは、ただただ神様のあわれみによるものでした。神様のあわれみを知って、夫婦や親族だけでなく、近所の人たちも一緒に多くの人が喜びました。

2.赤ちゃんの命名の時に起こった奇蹟(59節~64節)
   赤ちゃんに割礼を施し名前をつける時がきました。人々は父親の名前にちなんで赤ちゃんをザカリヤと名づけようとしました。しかし、エリサベツもザカリヤも赤ちゃんの名前はヨハネですと、はっきりと言いました。この名前は、御使いがザカリヤに告げていた名前でした。エリサベツもザカリヤも、赤ちゃんが与えられたのは神様のあわれみによるのだとしっかりと受け止めていたのです。
 するとすぐに、ザカリヤの口が開かれました。口がきけるようになったザカリヤは、神様をほめたたえました。ヨハネの誕生は、神様の救いの到来を告げるものでした。ですからザカリヤは、神様をほめたたえたのです。

3.神様のみわざを人々は心にとどめた(65節~66節)
 
この奇蹟を見た人々は、神様を恐れ、多くの人にこの出来事が伝えられました。そしてこの出来事を聞いた人々は、神様のみわざを心にとどめました。ヨハネの誕生とそれに伴った奇蹟は、人々に神様のみわざ、神様によってもたらされる救いへと目を向けさせるものでした。

考えよう
 
ヨハネの誕生を通して、多くの人が神様のみわざへと目を向けました。これは、救い主イエス様に先立つ者としてこれ以上ない、最もふさわしい誕生でした。神様はヨハネの誕生を通して、ご自身によって救いがもたらされるということを人々に示してくださったのです。
 神様は私たちにも、その時々に応じて、ご自分の救いのみわざを語りかけてくださっています。これまでの歩みを振り返り、神様が私たち一人ひとりにしてくださったみわざを思い起こし、私たちを救いへと導いてくださった神様にご一緒に感謝しましょう! 




―今週のみことば―   

  聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。

 ルカの福音書1章66節 





7月17日

聖書個所:ルカの福音書1章67節から80節
説教題:「主の深いあわれみ」

 

テーマ 救いのすばらしさ
 1.主によってもたらされた救い(67節~75節)
  主は民を顧みて、贖ってくださいました。神様に背いていた民は、神様に対して払うべきものがありました。それは罪のゆえの滅びです。
 ですが神様はそんな私たちに心をとめ、代価を支払ってくださいました。その代価とはイエス様のことです。イエス様が罪の身代わりとして死んでくださったことで、救いはもたらされました。
 この救いは、古くから語られていた通りのことでした。救いがもたらされたことで、私たちは主の御前に出て、主の民として礼拝をおささげすることができるようになったのです。

2.救いにおけるヨハネの役割(76節~77節)
  救いにおけるヨハネの役割は、イエス様に先立って行き、道を備えるということでした。
 成長したヨハネは人々に罪を悔い改めるよう教えました。預言通りにヨハネは真の救い主であるイエス様の道備えをしたのです。

3.救いがもたらすもの(78節~80節)
 ザカリヤは最後に、神様が与えてくださる救いによって何がもたらされるのかについて語りました。それは滅びからの救いです。
 私たちは本来、その罪のゆえに滅びる者、暗闇と死の陰に住む者でした。そんな私たちの身代わりとなってイエス様が死なれたことで、私たちは滅びから救われました。そして本当の平和、神様との関係の回復へと導かれたのです。
 このようなすばらしい救いを、神様はただそのあわれみによってもたらしてくださったのです。

感謝
 神様は私たちに罪による滅びからの救いという、すばらしい救いを与えてくださいました。これはただただ神様の一方的なあわれみによるものです。私たちをあわれみ、救いを与えてくださった神様に心から感謝しましょう。

 

―今週のみことば―

 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。

 ルカの福音書1章78、79節 



7月24日

聖書個所:士師記1章16節から2章5節
説教題:「主に従わなかったことで」

 

テーマ 悔い改めへと導いてくださる主
 1.主との契約を破ったイスラエルの民(1章16節~36節)
 
16節から36節にかけて、イスラエルの民がどのように約束の地を獲得していったのかが描かれています。神様は約束通り民を約束の地へと導き、土地を獲得させてくださいました。
 しかし民は主の命令を破りました。主の命令、それは約束の地に住んでいる人々を聖絶しなさいというものでした。この命令は、民が神様から離れて偶像を拝むことがないようにするため、民が祝福されるための命令でした。ですが民は、その地の人々を聖絶しなかったばかりか、追い払うこともしませんでした。
 その結果、民のただ中に偶像を拝む人々が住むことになってしまいました。

2.悔い改めへと導く主のことば(2章1節~3節)
  このような民に対して、神様は使いをお遣わしになりました。主の使いはイスラエルの民に対して、「主はご自分の契約を決して破らず、あなたがたを約束の地へと導いてくださった。それなのになぜあなた方は神様の声に従わず、神様との契約を破ったのか。神様はあなた方の中から偶像を拝む民を追い払われない」と語りました。偶像を拝む民を追い払うことはしないという厳しいことばです。
 ですが一方で、ご自分との契約を破った民を神様はお見捨てにならなかったということも、この言葉からわかります。神様は使いを遣わすことで、民を悔い改めへと導いてくださったのです。

3.イスラエルの民の悔い改め(2章4節~5節)
 主の使いの言葉を聞いたイスラエルの民は声を上げ、泣きました。主の悔い改めへの招きに応答したのです。しかし、残念ながらこの後もイスラエルの民は神様に背き続けていくことになります。それでも神様は深いあわれみによって民に御手をのばし続けてくださいました。

考えよう

 神様は私たちのことも、主のもとに立ち返り悔い改めるよう導いてくださるお方です。神様から示される罪があれば正直に神様の前に罪を認め、悔い改めましょう。 


 

―今週のみことば―

 それでわたしも言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らは

あなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる。』」士師記2章3節 

2022年8月

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8月7日

聖書個所:ルカの福音書2章1節から7節
説教題:「飼い葉桶に生まれた救い主」


テーマ 救い主イエス様の誕生
 1.皇帝アウグストゥスから出た勅令(2章1~2節)
 
ヨハネの誕生を人々が喜び、曙の光の到来を期待する中、皇帝から住民登録をせよという勅令が出されました。この出来事の背後には神様のご計画がありました。この勅令があったことで、ヨセフとマリアはベツレヘムに行くことになりました。ベツレヘムは救い主がお生まれになると預言されていた場所だったのです。神様はローマ皇帝の勅令さえも救い主イエス様の誕生のために用いられたのです。

2.ベツレヘムの町へ行ったヨセフとマリア(2章3~5節)
 
勅令に従い、人々はそれぞれ自分の町へと帰って行きました。ヨセフも、身重であったいいなずけのマリアとともにナザレからベツレヘムへと旅することになりました。
  彼らがベツレヘムで住民登録を行ったのは、ヨセフが「ダビデの家に属し、その血筋だったから」でした。ダビデの家系に、そしてベツレヘムで救い主が生まれるということは預言されていたことでした。神様のご計画の中で、救い主イエス様は誕生されたのです。

3.飼葉桶に生まれた救い主(2章6~7節)
 
救い主の誕生というすばらしい瞬間ですが、イエス様はなんと飼葉桶に寝かせられました。汚くてくさい家畜小屋の飼葉桶に救い主は寝かせられたのです。
  救い主であるイエス様が飼葉桶という汚く、くさい場所で生まれたのは、イエス様が神様としてのあり方を捨て、私たちを罪から救うために来られたことを象徴しているからです。イエス様は私たちを罪という最も暗く汚いものから救うために来てくださいました。

感謝

  イエス様は私たちを罪から救うために来てくださいました。このことを覚え、神様に感謝しましょう。 




―今週のみことば―

   ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 ルカの福音書2章6~7節 





8月14日 昇天者記念礼拝

聖書個所:テサロニケ人への手紙4章13節から18節
説教題:「死で終わらない希望」

テーマ クリスチャンに与えられている再会の希望
 1.クリスチャンが信じている再会の希望(4章13~14節)
  この手紙の著者であるパウロは、「眠っている人たち」について知ってほしいと私たちに語りかけます。「眠っている人」とは、亡くなった方のことを指しています。クリスチャンにとって「死」は永遠の別れを意味してはいません。死とは一時的なものであり、よみがえる時が来ると私たちは信じています。
  なぜよみがえると信じているのか、それはイエス様が死んで復活されたと信じているからです。
  イエス様は、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かり死なれ、よみがえられました。このことのゆえに私たちは、イエス様を信じ召された人たちを神様はよみがえらせてくださるはずだと信じています。

2.どのようにして再会するのか(4章15~17節)
  続けてパウロは、召された人たちと再会する様子を具体的に語っています。 この再会は一時だけのものではありません。永遠に主なるイエス様とともにいることになるとパウロは語ります。そこには悲しみや、苦しみ、悩みもありません。

3.再会の希望を抱き、互いに励まし合う(4章18節)
  パウロは最後に「ですから、互いに励まし合いなさい」と命じています。クリスチャンであっても、親しい方が召された悲しみ、今地上で会うことができない悲しみはあります。ですが、私たちにはその悲しみにまさる希望が与えられています。だからこそ、この希望へと目を向け続けることができるように、互いに励まし合いなさいとパウロは命じているのです。

招き

  クリスチャンには親しい方の死という悲しみにまさる、再会の希望が与えられています。この希望は、イエス様がよみがえられたということに基づく確かなものです。ぜひあなたも、イエス様を信じ、この希望を受け取っていただきたいと思います。 



―今週のみことば―   

   イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、 イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来れるはずです。

 テサロニケ人への手紙第一4章14節 




8月21日

聖書個所:ルカの福音書2章8節から20節
説教題:「喜びの知らせ」

 

テーマ 救い主誕生の喜びの知らせ
1.喜びの知らせを最初に聞くために選ばれた羊飼い(2章8節)
 
当時、羊飼いは人々から疎まれ、蔑まれていた存在でした。そんな羊飼いたちに、救い主誕生という喜びの知らせは最初に告げられました。神様のもたらしてくださる救いは、羊飼いのような人々から蔑まれていた人にこそ、もたらされるものです。だからこそ、神様は羊飼いたちに最初に、救い主の誕生を知らせてくださったのです。

2.救い主誕生の喜びの知らせ(2章9~14節)
  羊飼いのもとに主の使いが現れ、大きな喜びを知らせました。この喜びは、当時の人だけでなく、今生きている私たちにとっても喜びです。なぜならこの喜びとは、救い主の誕生という、私たちにも関係のある出来事だからです。 救い主であるイエス様は、私たちの罪の身代わりとなるためにこの世へと来てくださいました。このことによって私たちは罪の滅びから救われました。ですから、救い主イエス様の誕生はすべての人にとっての喜び、私たちにとっての喜びなのです。

3.救い主に会いに行った羊飼い(2章15~20節)
 
御告げを聞いた羊飼いたちは、すぐに救い主に会いに行きました。赤ちゃんを捜し当てた羊飼いたちは、人々に救い主誕生の御告げを知らせ、神様をあがめ、賛美しながら帰って行きました。
  救い主誕生の知らせは人々から蔑まれていた存在であった羊飼いたちに最初に知らされ、その羊飼いたちによって人々に伝えられました。 羊飼いたちが素直に救い主誕生の御告げを信じたことで、人々にも救い主誕生の喜びは伝えられていったのです。

チャレンジ

 羊飼いたちが素直に救い主誕生の御告げを信じ、人々に伝えたように、救い主イエス様の誕生の喜びを知る私たちも、人々にこの喜びを伝えていきましょう。 

感謝
 神様は私たちに罪による滅びからの救いという、すばらしい救いを与えてくださいました。これはただただ神様の一方的なあわれみによるものです。私たちをあわれみ、救いを与えてくださった神様に心から感謝しましょう。

 

―今週のみことば―

  羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、 神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 ルカの福音書2章20節 

2022年9月

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9月4日

聖書個所:ルカの福音書2章21節から38節
説教題:「シメオンとアンナの賛歌」
 

テーマ~イエス様の誕生を伝えたシメオンとアンナ~
 1.主に信頼し、律法を守っていた両親(21~24節)
 
赤ちゃんが生まれて八日が経ち、「イエス」という名前がつけられました。御使いがつけた名前です。両親は、イエス様の誕生が神様によってなされたものだとしっかりと受け止めていたのです。

2.救い主誕生の意味を語ったシメオン(25~33節)
  時を同じくして、エルサレムにシメオンという老人がいました。シメオンはイエス様について、すべての人の前に備えられた救いであると告げました。神様はすべての人を救うためにイエス様を送ってくださったのです。
 シメオンはさらに、救い主であるイエス様の受難を預言しました。イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださるためにお生まれになりました。
  シメオンは、救い主イエス様の誕生の喜びと、救いをもたらすために私たちの罪の身代わりとして死なれるということを伝える役割を担ったのです。

3.救い主誕生の喜びを人々に伝えたアンナ(36~38節)
  今日の出来事にはもう1人、女預言者のアンナという人が出てきます。アンナも救い主誕生を人々に伝えました。シメオンもアンナも年をとってなお、主のご用のために用いられました。

 チャレンジ
 
イエス様の誕生は、救いがすべての人にもたらされることを意味していました。それは同時に、救い主であるイエス様が私たちの罪の身代わりとして死んでくださるということを意味していました。

 私たちの周りには、まだ救い主であるイエス様を知らない方々がたくさんいます。シメオンやアンナと同じように、救い主イエス様誕生の意味を宣べ伝たいと願います。

―今週のみことば―
 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対に あうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことに なります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。 ルカの福音書2 章 34 ~ 35節  



9月11日

聖書個所:士師記2章6節から23節
説教題:「試みの意味」

テーマ ~試みの意味~
1.信仰継承に失敗したイスラエルの民(6~10節)
  ヨシュアも、長老たちも死んでしまい、主を知らない別の世代が起こりました。
 「主を知らない」とは、経験的に神様のことを知らなかったということです。この別の世代の民は神様のみわざを直接見たり、経験しなかったので、主こそ本当の神様だということが自分自身の信仰として根付かなかったのです。

2.堕落したイスラエルの民と救いの御手をのばし続けてくださった主(11~19節)
  イスラエルの民は、神様に背き、堕落していきました。ですが、主を捨てたイスラエルの民さえも主はあわれみ、救いの御手をのばしてくださいました。ところが、イスラエルの民はすぐにまた主に背き、偶像礼拝に陥りました。
  士師記を読む時に、この頑ななイスラエルの民の姿は私たち自身の姿でもあるということに気づかされます。悔い改めても、また少しすると罪の誘惑に負けてしまう弱さが私たちにはあるのではないでしょうか。そんな私たちのことも主はあわれみ、救いの御手をのばし続けてくださっているのです。

3.悔い改めへと招いてくださる主(20~23節)
  今日の箇所には続きがあります。頑ななイスラエルの民に対し主の怒りが燃え上がり、異邦の民が残ることとなりました。主が異邦の民を追い払わなかったのは、イスラエルを試すためでした。主は試すことによって、イスラエルの民が主に立ち返る事を願っておられたのです。 異邦の民が残されていたことさえも、主のあわれみのみわざだったのです。神様は試みさえも用いられて、主に立ち返るよう招いてくださっているのです。

考えよう

試みの中にさえも、神様のあわれみはあります。神様は試みさえも用いて、私たちにも主に立ち返るよう求めておられるのです。 


 

―今週のみことば―

そのため、の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は言われた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残しておいたいかなる異邦の民も、彼らの前から追い払わない。これは、先祖たちが守ったように、彼らもの道を守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」士師記2章20~22節 





9月18日

聖書個所:コリント人への手紙第二4章16節から18節
説教題:「日々新たにされている」

 テーマ ~クリスチャンに与えられている希望~
 1.日々新しくされている(16節)
私たちの人生は、落胆することばかりです。人生を長く歩むほど、その思いは強くなるのではないでしょうか。肉体的に衰えるのはもちろん、人間関係においても精神的に苦しみ傷ついたり、クリスチャンであるがゆえに悩んだり、苦しむこともあります。
そんな中にあってもパウロは「私たちは落胆しません」と言います。たとえ年をとり肉体的には衰えていっても、私たちの内にある新しいいのちは常に新しくされているのです。日々新たにされ、イエス様の似姿に変えられているので、私たちは落胆することがないのです。

2.苦難によってもたらされる栄光(17節)
 そればかりではありません。パウロは苦難がもたらすものについて語ります。それは栄光です。 「軽い苦難は重い永遠の栄光をもたらす」と言われています。これは苦難が取るに足りないということではありません。今経験している苦しみが軽いと言えるほどに、後にもたらされる栄光は素晴らしいものなのだということです。
 神様に従いぬいた時、神様は私たちに栄光を与えてくださいます。それは御国で神様といつまでも一緒にいることができるという素晴らしい栄光です。神様から栄光を受けるという確かな約束が私たちには与えられているのです。
 
3.目に見えないものに目を留めて生きる(18節)
ですから、私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。苦難の中にあっても私たちは神様から与えられる栄光、永遠に続く栄光を目指して日々歩んでいくことができるのです。

感謝
 私たちは生きていく中で苦難があります。ですが、その苦難に優る栄光が与えられることに感謝したいと思います。そして、私たちに与えられる永遠の栄光に目を留めて、これからも歩んでいこうではありませんか。

 

―今週のみことば―

  私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。 見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

コリント人への手紙第二4章18節 

2022年10月

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10月2日

聖書個所:ルカの福音書2章39節から52節
説教題:「神の子イエスの成長」
 

 テーマ ~神の子であり、人であるイエス様~
 1.過越の祭りでの出来事(39~47節)
 
イエス様が12歳になった時のことです。過越の祭りの帰り道の途中で、イエス様がいないことがわかりました。両親は必死にイエス様を捜し回りました。
  両親の心配をよそに、イエス様は宮で教師たちの真ん中に座って話を聞いていました。人々はイエス様の知恵と答えに驚いていました。イエス様は貧しい両親のもとで育った普通の子どもでしたが、イエス様の受け答えを聞いた人々はその知恵と答えに驚いたのです。
 
2.神の子としての自覚をもっておられたイエス様(48~50節)
 
イエス様を見つけたマリアは言いました。「どうしてこんなことをしたのですか。」お小言を言うのも無理もないことです。
 ですが、それに対してイエス様は「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか」と仰いました。
 何気なく言われた言葉ですが、この時イエス様はすごいことを仰いました。なぜなら、イエス様はご自分のことを神様の御子であるとはっきりと告白なさったからです。
 イエス様はご自分が神の子であり、なんのためにお生まれになったのかということをご存じだったのです。

3.人として両親に仕えながら成長したイエス様(51~52節)
  その後イエス様はナザレへと帰って行かれ、両親に仕えられました。
  神様の御子であるイエス様が人に仕えられた。このことを考える時に、イエス様ご自身が仰っていたことを思い出します。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」イエス様は神様の御子であるにもかかわらず、人として来られ、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。

考えよう

 イエス様は仕えられるためではなく、仕えるために来てくださいました。神の子であるイエス様が、私たちの罪の身代わりとなるために来られたことを覚えたいと思います 


―今週のみことば―
  イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

 ルカの福音書2章52節 


 

10月9日

聖書個所:ルカの福音書3章1節から6節
説教題:「荒野で叫ぶ者の声」
 

テーマ ~人々の目を自分の罪へと向けさせ、イエス様の道備えをしたヨハネ~
 1.ヨハネに臨んだ神様のことば(1~2節)
 冒頭で、当時の時代背景が語られています。特に注目すべきところは「アンナスとカヤパが大祭司であった」という部分です。
 大祭司は本来一人のはずが、人の都合によって祭司が選ばれ、任命されるという、信仰の危機に人々は陥っていたのです。そんな時に、神様のことばはヨハネに臨みました。

2.罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたヨハネ(3節)
  神様のことばが臨んだヨハネは、人々に「罪を悔い改めなさい」と宣べ伝えました。
 聖書は、すべての人が罪人であると語ります。私たちもまた神様に背を向け歩んでいる罪人です。そして罪人である私たちに、神様は悔い改めを求めておられます。向きを変え、ご自分に立ち返るよう神様は求めておられるのです。
  人々に自分は罪人であると気づかせた。これこそ、ヨハネが果たした役割でした。

3.すべての人が救いを見るため、イエス様の道備えをしたヨハネ(4~6節)
  ルカはさらにヨハネの登場が、イザヤ書で神様が仰っていた通りのことだったのだと言います。「荒野で叫ぶ者の声」とはヨハネのことであり、「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ」とは、ヨハネが人々に自分の罪に気づかせ、悔い改めさせたということに重なります。ヨハネは人々に自分の罪に気づかせることによって、イエス様をお迎えする準備、道備えをさせたのです。
 そしてイエス様をお迎えする準備が整うと、すべての者が神の救いを見ます。自分の罪を認め、悔い改め、イエス様を迎え入れる時、すべての人が救われるのです。

チャレンジ
 
私もあなたも同じ罪人であり、イエス様の救いを必要としている者です。そんな私たちのために神様は救い主イエス様を遣わしてくださいました。

 素直に自分が罪人であることを認め、悔い改めて、イエス様をお迎えしましょう。


―今週のみことば―

 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい 道は平らになる。こうして、すべての者が神の救いを見る。』」

 ルカの福音書3章4~6節 



10月16日

聖書個所:士師記3章1節から11節
説教題:「あわれみ深い主」
 


テーマ ~試みさえも用いて、主に信頼することを教えた神様~
1.主がイスラエルを試みられた目的(1~4節)
 
ヨシュアの時代から時が流れ、戦いを知らない世代になっていました。主がカナンの地を与えると約束してくださったこと、主によって戦いに勝利したということ、そして約束された地を主が与えてくださったのだということが、民にはわからなくなっていたのです。
 神様は異邦の民を残し実際に戦わせることで、イスラエルの民に、主により頼むことを学ばせようとなさいました。

2.主を忘れ、偶像に仕えたイスラエルの民(5~6節)
  しかし、イスラエルの民は異邦の民を家族として迎え入れ、一緒に住むようになり、偶像に仕えました。イスラエルの民は主により頼むのではなく、人間同士の関係により頼んだのです。

3.主により頼むことを学んだイスラエルの民(7~11節)
  主を忘れ、主の目に悪であることを行ったイスラエルの民に対して、主は怒りを燃やされました。
  苦しんだイスラエルの民は、主に助けを求めました。すると、主は救助者を立ててくださいました。神様は悔い改めて助けを求める時、必ず助けてくださるお方です。
  さらに主は救助者オテニエルを通して、イスラエルの民に、主により頼むことを教えられました。主の霊がオテニエルに臨み、イスラエルの民は戦いに勝利することができたのです。

考えよう
 
主は試みさえも用いて、イスラエルの民に、主により頼むことを学ばせました。主はすべてのことをご存知で、最善へと導いてくださるお方なのです。

  日々の歩みにおいて私たちはいろいろな苦難を通ります。しかし主は、すべてのことを知っておられ、益としてくださいます。どうか主により頼んで歩んでいくことができますように。

 

―今週のみことば―

  イスラエルの子らがに叫び求めたとき、はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。それはカレブの同族ケナズの子オテニエルである。

 士師記3章9節 



10月23日

聖書個所:ルカの福音書3章7節から14節
説教題:「悔い改めにふさわしい実」
 


テーマ ~悔い改めにふさわしい実 罪から離れ、神様に喜ばれる生き方をする~
 1.さばきを警告し、悔い改めにふさわしい実を結ぶよう求めたヨハネ(7~9節)
  ヨハネのもとにたくさんの人々がやってきました。ところが、そんな群衆に対してヨハネは「まむしの子孫たち」と厳しい言葉で語りました。
  群衆は「私たちはアブラハムの子孫だから救われるはずだ。今まで通り生きていけばいい。」と思っていました。ヨハネは、そんな、今まで通り生きていけばいいという考えにはっきりNO!と言ったのです。「バプテスマを受ければあとは自由に生きてもよいという考えではいけません。むしろ、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と。
  そしてヨハネは、人々が滅びに向かって突き進んでいるのだということを、はっきりと語りました。

2.悔い改めにふさわしい実とは(10~14節)
  ヨハネの言葉を真剣に受け止めた群衆は、どうすればよいのか尋ねました。それに対してヨハネは、神様に喜ばれることをするように言いました。悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、自分中心の生き方を捨て、神様に喜ばれる生き方をするということなのです。
  ヨハネは取税人に対しても、私利私欲のために生きるのではなく、罪から離れて、与えられた働きを誠実に行うよう教えました。これも、主に喜ばれる生き方をするということです。
  ヨハネはさらに兵士たちに対しても、自分の給料で満足し罪を犯さないように言いました。神様から与えられているものに満足し、神様に感謝するという、神様を中心にした生き方をするようヨハネは求めたのです。

チャレンジ
 
悔い改めるとは、口先だけでのことではなく、私たちの生き方に表れるものです。日々の歩みにおいて罪から離れ、主に喜ばれる生き方をすることが、悔い改めにふさわしい実を結ぶということなのです。

  今、私たちは悔い改めにふさわしい実を結んでいるでしょうか。どうか神様が求めておられる悔い改めにふさわしい実を私たち一人一人が結ぶことができますように。 


 

―今週のみことば―

   ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしの子孫たち。だれが、迫りくる怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
ルカの福音書3章7~8節前半 

2022年11月

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11月6日

聖書個所:ルカの福音書3章15節から17節
説教題:「力のある方」


テーマ ~力のある方キリストとは~
1.人々が抱いていたキリストに対するイメージ(15節)
 
当時、人々はローマ帝国の圧政に苦しんでいました。ですから人々は、自分たちを苦しめているローマ帝国を打ち倒し、解放してくれる指導者を求めていました。
  自分たちの先頭に立って導いてくれる力強い指導者。ヨハネはこのようなイメージにピッタリの人物でした。人々はヨハネに対して「自分たちが求めている」キリスト像、力強い指導者の姿を重ね合わせていたのです。

2.ヨハネが語ったキリスト(16~17節)
   ヨハネはそのような人々に、キリストがどのようなお方なのかを語りました。
 ①偉大なお方
  まずヨハネは、キリストとは「自分も履き物のひもを解く資格がないほど偉大なお方」なのだと語りました。
  土やほこりで汚れた足に触るのが、履き物のひもを解くということです。ヨハネはそんな仕事さえも自分にはする資格がないのだと言いました。キリストは自分とは比べものにならないほど偉大なお方なのだとヨハネは言ったのです。
 ②罪を完全に赦すことがおできになるお方
 
次にヨハネは、キリストは「聖霊と火でバプテスマを授け、罪を完全に赦すことができるお方」なのだと語りました。
  ヨハネが授けていた水のバプテスマは、罪に気づかせるものであって、罪を犯すたびに、繰り返される必要がありました。一方、キリストの授けてくださるバプテスマは「聖霊と火で」授けられるものです。キリストは火によって金属を精錬するように、私たちの罪を完全に赦すことができるお方なのです。
 ③さばく権威を持っておられるお方
 
そして最後にヨハネは、キリストが「さばく権威を持っているお方」なのだと語りました。この権威は人には与えられていないものです。ただ神様だけができることです。

考えよう

  イエス様は偉大なお方、完全な罪の赦しを与えることができるお方、さばく権威を持っておられるお方です。
  そんな力あるお方が、私たちの罪の身代わりとなって死ぬために来られたのだということを覚え、感謝したいと思います。 



―今週のみことば―
   そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。 ルカの福音書3章16節前半 



 

11月13日

聖書個所:士師記3章12節から31節
説教題:「主によって与えられた勝利」


 テーマ ~弱点さえも用いてくださる主~
1.重ねて主の目に悪であることを行ったイスラエルの民(12~14節)
 
イスラエルの民は主の目に悪であることを「重ねて」行いました。繰り返し神様に対して罪を犯したのです。
  そんなイスラエルに対し、主はモアブの王エグロンを強くし逆らわせました。そしてイスラエルの民はなんと十八年もの間、エグロンに仕えることとなってしまいました。
  イスラエルの民が主に立ち返るのに十八年もかかりました。主の目に悪であることを繰り返し行っていたイスラエルの民は、罪への感覚が麻痺していたのです。
  しかし神様は、そんなイスラエルの民を待ち続けてくださいました。神様は私たちがご自分のもとに帰ってくるのを、今か今かと待っていてくださるお方です。

2.主によって立てられた救助者左利きのエフデ(15~25節)
  イスラエルの民が主に叫び求めると、主は救助者を立ててくださいました。主が立ててくださった救助者エフデは、左利きでした。
  左利きという言葉はもともと、右手が不自由であるという侮蔑的な意味合いがあったようです。しかし主は、そのような人の目から見れば弱点と思える左利きという特徴を用いられました。エフデが左利きであることによって、王や側近の警戒心が解かれたのです。
  暗殺は成功し、エフデは敵の手から逃れることができました。エフデの勝利の背後には、弱点さえも用いられる主がおられたのです。

3.主によって与えられた勝利(26~31節)
  さらにエフデは、人々に「主は、敵をあなたがたの手に渡された」と語りました。この言葉の通り、イスラエルは大勝利を収めました。主によってイスラエルは勝利したのです。 そして戦いに勝利したイスラエルは、実に八十年もの間、穏やかでした。

祈り

  主は私たちのことも、主のご用のために用いてくださいます。私たちの弱ささえも用いてくださる主に、主のご用のために用いてくださるようお祈りしましょう。 



―今週のみことば―
  イスラエルの子らがに叫び求めたとき、は彼らのために、一人の救助者を起こされた。ベニヤミン人ゲラの子で、左利きのエフデである。 士師記3章15節前半



11月20日

聖書個所:マルコの福音書10章13節から16節
説教題:「子どものように神の国を受け入れる」


 

テーマ ~子どものように神の国を受け入れる~
 1.子どもたちがイエス様のもとに来るのを叱った弟子たち(13節)
  イエス様に触れていただこうと、子どもたちが連れて来られました。しかし弟子たちは、子どもたちをイエス様のもとに連れてきてはいけないと人々を叱りました。
  当時、子どもは無力で取るに足りない存在と思われていました。ですから弟子たちは自分たちの師であるイエス様には、子どもたちはふさわしくないと思ったのです。

2.憤られたイエス様(14~15節)
  そんな弟子たちに対し、イエス様は憤られました。弟子たちがしたことは間違っていたのです。
  イエス様は弟子たちに「神の御国はこのような者たちのものです」と仰いました。神の国とは立派な人、信仰深い人が自らの力によって勝ち取るものではありません。子どものように無力な者に神様が与えてくださるもの、素直に神の国を受け入れる者にこそ与えられるものなのです。
  私たちも子どもたちと同じように神様の前では無力な者、罪人です。しかし、そんな私たちが主に信頼し神の国を素直に受け入れる時、神様は喜んで私たちのことを迎え入れてくださいます。

3.子どもたちを抱き、手を置いて祝福されたイエス様(16節)
  イエス様は子どもたちを腕に抱き、手を置いて祝福されました。イエス様は無力で取るに足りない者である子どもを受け入れ、愛されました。イエス様は信仰深いから愛されるのではありません。立派だから愛されるのでもありません。自分の弱さを認め、自分の罪を認める者をイエス様は喜んで受け入れてくださるお方です。

チャレンジ

  子どもたちを喜んで受け入れてくださったように、イエス様は私たちのことも喜んで受け入れてくださいます。どうか私たちも、子どものように素直に神の国を受け入れることができますように。 


―今週のみことば―
  イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 マルコの福音書10章14~15節  

2022年12月

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12月4日

聖書個所:イザヤ書9章6節から7節
説教題:「神さまの約束の成就」
 

 テーマ ~神様の愛のゆえに来てくださった救い主~
 1.私たちのために来てくださった救い主(6節)
  罪人である私たちは滅びる者でした。そんな私たちのために赤ちゃんが生まれてきてくださるのだとイザヤは言います。
  この方は真の王、救い主です。それは「不思議な助言者」、「力ある神」、「永遠の父」、「平和の君」という呼び名からわかります。そしてこれらの呼び名は、イエス様の姿に重なります。イエス様がなさった数々の奇跡、罪さえも赦すことがおできになるということなど、呼び名通りです。イエス様こそ真の王、救い主なのです。

2.救い主の到来によってもたらされるもの(7節前半)
  真の王であり救い主であるイエス様の到来によってもたらされるもの、それは神様との関係の回復です。罪のゆえに私たちは神様との関係が断絶し、滅びる者でした。しかしイエス様が私たちの罪の身代わりとして死んでくださったことで、私たちは神様との関係が回復し、平和がもたらされました。この平和は、一時的なものではありません。永遠の平和が救い主イエス様の到来によってもたらされたのです。

3.神様の熱心によって与えられた救い主(7節後半)
  すばらしい救い主の到来は、私たち人間の努力によるのではなく、ただただ神様の熱心によるのだとイザヤは語りました。
  神様に背を向け、滅びへと向かっている私たちのことを、それでも神様は愛し、戻ってくるようにと熱く願ってくださいました。だからこそ、神様は救い主を私たちのために送ってくださったのです。

感謝

罪人である私たちさえも愛し、救い主であるイエス様を送ってくださった神様に心から感謝しましょう。そして救い主イエス様の誕生をお祝いしましょう。 



―今週のみことば―
   ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と

呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。 イザヤ書9章6~7節



12月11日

聖書個所:マタイの福音書1章18節から25節
説教題:「聖霊によって身ごもった」
  

 テーマ ~神の御子イエス・キリストの誕生~
1.聖霊によってみごもったマリアと離縁しようとしたヨセフ(18~19節)
 
イエス様の母マリアはヨセフと婚約していました。そんな時、マリアが妊娠していることがわかりました。
  マリアは「聖霊によって」みごもりました。神様のみわざによってマリアはイエス様をみごもったのです。まさに奇跡によって、神の御子イエス様は人としてお生まれになりました。
  この話を聞いたヨセフは、ひそかに離縁しようと思いました。ヨセフはマリアの話を信じることができなかったのです。

2.主の使いが告げたこと(20~23節)
  そんな中、主の使いがヨセフの夢に現れました。御使いは「胎に宿っている子は聖霊によるのだ」と言いました。主の使いは、ヨセフにマリアが聖霊によって身ごもったことを確信させたのです。
  さらに御使いは、この赤ちゃんが私たちを罪から救う救い主であると語りました。私たち人間は生まれながらにして罪人です。罪のない方であるイエス様が、私たちの身代わりとなって死んでくださったことによって、私たちは罪から救われました。イエス様は私たちを罪から救う救い主なのです。
  さらに、神の御子イエス様がこのように生まれることが、預言の成就だと語られています。イエス様が地上に来てくださったその遥か前から、神様はインマヌエルと呼ばれる方を送ってくださることを約束してくださっていたのです。

3.聖霊によってみごもったことを信じたヨセフ(24~25節)
 
眠りから覚めたヨセフはマリアを妻として迎え入れました。ヨセフは、主の使いが夢の中で語ったことを信じたのです。

チャレンジ

  あなたも、イエス様が神の御子であり、私たちを罪から救ってくださる救い主であることを信じることができますように。 



―今週のみことば―

  彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。
 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」 マタイの福音書1章20~21節 



12月18日

聖書個所:ヨハネの福音書1章9節から13節
説教題:「すべての人を照らすまことの光」
 

  

テーマ ~神の子どもとされる特権~
1.すべての人を救うために来られたイエス様(9節)
  まことの光であるイエス様は、すべての人を照らすために来てくださいました。
  神様を知らず、自分がよいと思うように生きる私たちは、神様の目から見る時ただ滅びへと突き進んでいる状態なのです。神様を知らず、闇の中を滅びへと向かって歩んでいた私たち。そんな私たちのことを救うために、まことの光であるイエス様は来てくださいました。

2.イエス様を拒絶した人々(10~11節)
 
しかし、自分たちを救うために来てくださったイエス様を人々は拒絶しました。
  「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られた」とあるように、イエス様は永遠の初めから世におられた方、世を造ったお方です。それにも関わらず、人々はこの方を受け入れませんでした。それは自らの行いが悪かったからです。
  人々は自分の罪が明らかになるのを恐れてイエス様を拒絶したのです。

3.イエス様を信じる者に与えられる救い(12~13節)
  しかし、イエス様を受け入れ、信じる人々には豊かな祝福が与えられると言われています。それは「神の子どもとなる」ということです。
  私たちは本来滅びへと向かって歩んでいた者です。そんな者が、イエス様を受け入れるなら、神の子どもとされるのです。イエス様が私たちを罪による滅びから救ってくださる救い主だと信じることで、私たちは神の子どもとされます。これはまさに特権です。
  そして神の子どもとされたのは、私たちの願いや努力によるのではなく、ただ神様の恵みによるものです。私たちは神様の恵みによって、神様の子どもとされたのです。

チャレンジ

  どうかあなたも、まことの光であるイエス様を救い主として信じ、神様の子どもとされますように。 



―今週のみことば―
   しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子ども となる特権をお与えになった。
  この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、 ただ、神によって生まれたのである。

 ヨハネの福音書1章12~13節


 

12月25日

聖書個所:マタイの福音書2章1節から12節
説教題:「真の王の誕生」
 

 

 テーマ 真の王の誕生
 1.真の王の誕生を人々に告げた博士(1~2節)
 
東方から博士が真の王を礼拝するためにエルサレムにやって来ました。「礼拝」と訳されている言葉は、「ひざまずく」とか「ひれ伏す」という意味の言葉です。博士たちは真の王様の前にひれ伏し、ひざまずくために来たのです。 この真の王の誕生を博士たちは星の出現によって知りました。特別な星を出現させることによって、神様は人々に真の王の誕生を知らせてくださったのです。

2.真の王の誕生に動揺した人々(3~8節)
  真の王の誕生という知らせを聞いたヘロデや人々は、動揺しました。「動揺する」というのは、不安に思ったり、恐れたりするということです。 本当であれば、真の王の誕生は喜ばしいことです。しかし人々は今ある暮らしが変わるのを恐れて、真の王の誕生という遥かにすばらしい知らせを素直に受け入れることができませんでした。

3.真の王の誕生を喜び、礼拝した博士たち(9~12節)
  旅をつづけた博士たちは星に導かれ、幼子がいるところに到着しました。この時博士たちは、このうえもなく喜びました。いよいよ真の王に会えるのだという大きな喜びが博士たちにはあったのです。
  幼子がいる家にたどり着いた博士たちは、真の王であるイエス様に出会うと、ひれ伏して礼拝しました。真の王である方を前にしたとき、人はただひれ伏し、礼拝するのです。
  そして博士たちは宝箱に大事にしまっておいた献げ物、黄金、乳香、没薬をお献げしました。博士たちは王に最もふさわしいものをお献げしたのです。

チャレンジ

  どうか今、あなたも真の王イエス様をお迎えできますように。そして、博士たちがイエス様をひれ伏して礼拝したように、私たちも喜びと感謝のうちに神様の前にひざまずいて礼拝をお献げすることができますように。 



―今週のみことば―

その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。 そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

マタイの福音書2章10~11節 

2023年1月

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1月1日

聖書個所:詩篇103篇1節から5節
説教題:「主の恵みを数える」
   

テーマ ~私たちに与えられている主の恵み~
 1.主が良くしてくださったことを覚え主をほめたたえる(1~2節)
  「わがたましいよ 主をほめたたえよ」この言葉は、私たち一人ひとりに語られている言葉です。
  私たちがほめたたえるのは主です。神々と名の付くものはちまたにあふれています。しかし、主はそれらの神々とは違います。主こそ唯一のお方、真の神です。
  また、私たちは主が良くしてくださったことを覚える時、主をほめたたえます。私たちは、主の良くしてくださったことをすぐに忘れてしまう者です。だからこそ主の良くしてくださったことすべてを覚えて、主を賛美しなさいと言われているのです。

2.主が良くしてくださったこととは(3~5節前半)
 
主が良くしてくださったことについて、主がどのようなお方なのかということが5つの側面から語られています。「主はすべての咎を赦してくださる方」、「主はすべての病を癒してくださる方」、「主はいのちの穴から贖ってくださる方」、「主は恵とあわれみの冠をかぶせてくださる方」、「主は私たちの一生を良いもので満ち足らせてくださる方」です。
  これら5つのことを見る時に、主が良くしてくださったこととは「救い」なのだと気づかされます。しかもこの救いはこれからももたらされるものです。主はこれからも私たちに救いを与え続けてくださるのです。

3.主によって新しくされ続ける(5節後半)
  このようにすばらしい救いに与る私たちは新しくされます。しかも私たちが新しくされるのは一度のことではなく、新しくされ続けます。主の救いに与った私たちは日々新しくされ続け、主に近づいていくのです。

感謝

  主は罪人である私たちに救いを与えてくださいました。この救いに与ることで、私たちは日々新たにされ続けています。このようなすばらしい救いを与えてくださった主を、心から、全身全霊をもってほめたたえましょう。 



―今週のみことば―

  わがたましいよ をほめたたえよ
  私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。
  わがたましいよ をほめたたえよ。
  主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
  詩篇103篇1~2節 



1月8日

聖書個所:ルカの福音書3章18節から20節
説教題:「福音を宣べ伝えた結果」
 

テーマ ~罪をすなおに認め、悔い改めることの難しさ~
 1.福音を宣べ伝えたヨハネ(18節)
  ヨハネは人々に「福音」を伝えました。ここまでヨハネは、人々に自分が罪人だと気づかせ、悔い改めを迫りました。そして救い主の到来の道備えをしました。罪に気づかせ、悔い改めを促すことも良い知らせなのです。
  自分が罪人であること、その罪のゆえに滅びる者であることを知るからこそ、福音のすばらしさが本当にわかります。自分の罪深さを知れば知るほど、そんな私のことさえも神様は救ってくださったのかと神様の愛の大きさを知ることができ、喜ぶことができます。
  ヨハネはまっすぐに人々に自分の罪に気づかせ、悔い改めを促しました。それはもたらされる救いのすばらしさを知るからこそのことだったのです。

2.福音を受け入れなかったヘロデ(19~20節)
 
自分を罪から救うために救い主が来てくださる。良い知らせであるはずの福音をヘロデは受け入れませんでした。それは、自分の悪を非難されたからでした。
  ヘロデが犯していた悪は、兄弟の妻を自分のものにするという、誰の目にも明らかな罪でした。しかし、ヘロデはそれを素直に認めず、悔い改めませんでした。
  このような頑なな姿は、ヘロデに限ったことではありません。聖書には、罪を素直に認められない人の頑なさが繰り返し繰り返し語られています。そして、このような罪を素直に認められない姿というのは、私たち自身の姿でもあります。
  しかしそんな時にこそ、神様があわれみ深い方であり、罪を赦してくださる方であることを覚えたいと思います。神様は私たちが正直に自分の罪を認め、悔い改める時、私たちのことを喜んで受け入れ、赦してくださるお方です。

考えよう
 
今、私たちが罪を認めずに放っておいていること、悔い改めるべき罪はないでしょうか。あれば素直に自分の罪を認めたいと思います。そして主の御前に悔い改めましょう。

  どうか、心をやわらかくし、素直に、自らの罪を認めることができますように。そして神様の前に悔い改めることができますように。赦してくださる主に目を向けることができますように。 


 

―今週のみことば―
私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。 「私の背きをに告白しよう」と。
すると あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。

 詩篇32篇5節 


 

1月15日

聖書個所:ルカの福音書3章21節から38節
説教題:「あなたはわたしの愛する子」
 

テーマ ~ひとり子であるイエス様さえも遣わされた神様の愛~
 1.イエス様がバプテスマを受けられた意味(21~22節前半)
  イエス様は悔い改めのバプテスマを受けられました。しかしイエス様は神の御子であり、罪のないお方です。ですから本来、イエス様は悔い改めのバプテスマを受ける必要はありませんでした。なぜイエス様は悔い改めのバプテスマをお受けになったのでしょうか。
  それは悔い改めのバプテスマを受けることで「わたしは父なる神のみこころに従い、人々の罪の身代わりとなります」という宣言をなさったからでした。

2.神様が語られたことの意味(22節後半)
  神様のみこころに従いますというイエス様の宣言に対し、神様は「あなたはわたしの愛する子である」と言われました。イエス様こそ神様の愛しておられるたったひとりの子どもであると神様ご自身が証言してくださったのです。
  続けて神様はイエス様に「わたしはあなたを喜ぶ」と仰いました。神様は、イエス様が神様のみこころに従われようとしていることを喜ばれた、うれしいと言われました。ひとり子であるイエス様がみこころに従われ、私たちの罪の身代わりとなって死ぬことさえも神様は喜んでくださったのです。

 3.イエス様の系図の意味(23~38節)
  ルカは最後に、イエス様の系図を記しています。この系図の特徴は、イエス様からさかのぼっている、その元をたどっているということです。イエス様が来られたのはどうしてなのか、その理由をルカは伝えようとしているのです。 系図の最後は「神に至る」で終わっています。イエス様を遣わしてくださったのは神様ご自身だったのです。

感謝

  神様のみこころのゆえに、イエス様は人として地上に来られ、私たちの罪の身代わりとして死んでくださいました。この神様の愛に心から感謝しましょう。 


 

―今週のみことば― 
さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。 そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に 降って来られた。すると、天から声がした。

「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」 ルカの福音書3章21~22節 


 

1月22日

聖書個所:士師記4章1節から24節
説教題:「ヤエルに与えられた主の誉れ」
 

テーマ ~主に信頼する者に与えられる勝利~
  主に背いたイスラエルの民を主は救ってくださいました。そのために今回は3人の人物が用いられました。女預言者のデボラ、戦いの先頭に立ったバラク、敵のリーダーを討ち取った普通の女性ヤエルです。3人はそれぞれどんな働きをしたのでしょうか。

1.主に信頼するよう励ましたデボラと弱々しくも主に信頼したバラク(4~16節)
 
デボラはこれまで出て来た士師たちとは異なる点がありました。それは彼女が女性であり、戦いの先頭に立つことはなかったということです。神様のみこころを知らせるというのが、彼女の士師としての役割でした。
  デボラはバラクを励ましました。「『主が』勝利を与えてくださるのです」と何度もデボラはバラクを励ましました。しかし、バラクはなかなか神様に信頼することができませんでした。そんなバラクは、私たちの目から見ると何とも情けない人物にも思えます。
  しかし実はバラクは新約聖書で信仰の人として語られています。神様は人の目には弱々しく思える信仰でも、神様に信頼するその一歩を喜んで下さるお方なのです。

2.人よりも主に信頼したヤエル(17~24節)
  もう一人、主の働きに用いられた人物がいます。それはヤエルです。ヤエルのしたことは、言わば裏切りです。敵とはいえ友好関係にあった敵の軍の将をこのようにしてだまし討ちのようにして討ち取るというのは、普通に考えれば褒められるようなことではないように思えます。しかしここで私たちが目を向けるべきことはその方法ではなく、ヤエルが人との関係よりも主に信頼したということです。ヤエルは人との関係を損なってまでも、主に信頼しました。そして主はそんなヤエルに誉れをお与えになりました。

考えよう

  私たちは日々の歩みの中で様々な困難にぶつかります。しかし私たちが主に信頼する時、主は勝利を与えて下さるお方です。私たちもただただ主に信頼して歩んでいきましょう。 



―今週のみことば―
デボラはバラクに言った。
「立ち上がりなさい。今日、があなたの手にシセラを渡される。があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」 士師記4章14節前半 

2023年2月

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2月5日

聖書個所:ルカの福音書4章1節から13節
説教題:「荒野での試み」
 

 テーマ ~私たちにより添い、助けてくださる主に信頼する~
 1.御霊によって導かれ、試みを受けられたイエス様(1~2節前半)
 
聖霊に満たされて、いよいよ働きを始めようというその前に、イエス様は誰もいないような寂しい場所、荒野に行かれました。それは試みを受けるためでした。
  イエス様が試みを受けるために荒野に行かれたのは「御霊によって導かれ」とあるように、聖霊の働きによるものでした。イエス様を試すことが、神様のみこころだったのです。 イエス様も私たちと同じように試みを経験なさいました。私たちと同じように、いやそれ以上にイエス様は真正面から試みを受けられたのです。

2.主に信頼し、試みに打ち勝たれたイエス様(2節後半~13節)
 
悪魔はあらゆる手を使ってイエス様を誘惑し、神様から引き離そうとしました。悪魔が用いた手段は実に巧妙でした。一見罪でないことを言って神様から引き離そうとしたり、自分自身の栄誉へと目を向けさせたり、神様への信頼を逆手にとって神様への信頼を揺すぶろうとしました。
  それに対してイエス様はどこまでも神様に信頼し続けることで試練に打ち勝たれました。 この時だけでなく、イエス様の生涯において、悪魔の試みはいつもありました。このことから、イエス様は私たちの苦しみ、試みのつらさやしんどさを一番よくご存じの方なのだということがわかります。イエス様は私たちと同じように試みを受け、最後まで神様に従い抜かれたお方なのです。

考えよう
  イエス様はどこまでも神様に信頼し続け、試みに打ち勝ちました。 私たちも様々な試みにあいます。そして神様から引き離されそうになります。そんな時こそ、主に信頼し続けたいと思います。主につながり続けたいと思います。そしてイエス様が主に信頼し、試みに打ち勝たれたように、私たちも試みに打ち勝ちたいと思います。

  私たちは弱い者ですが、イエス様は私たちと同じように試みにあわれ、打ち勝ってくださったお方です。このイエス様が私たちにより添ってくださり、助けてくださるのです。 



―今週のみことば―

  イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助ける

ことができるのです。 へブル人への手紙2章18節 


 

2月12日

聖書個所:ルカの福音書4章14節から30節
説教題:「聖書のことばが実現した」

テーマ ~信じない者にではなく、信じる者に~
 序.働きを始め、称賛されたイエス様(14~15節)
 
イエス様はガリラヤで働きを始められました。すると、その評判が周辺一帯に広まりました。またイエス様は会堂で教えられ、人々から称賛されました。御霊の力に満ちたイエス様の教えには力があり、すべての人々が認めるほどのものだったのです。

1.郷里の人々にも、ご自分が救い主であることを証しされたイエス様(16~21節)
 
ご自分が育った町、ナザレに来られたイエス様は、いつもしているとおり安息日に会堂に入られ、イザヤ書を朗読されました。イエス様はそこから、ご自分が救い主であることをはっきりと人々に語られました。「今日、聖書のことばが実現しました。あなたがたに救いがもたらされる時が来たのです。ここで語られている救い主とは、わたしのことなのです」とイエス様は語られたのです。
  イエス様は人々に対して、救いの到来と、ご自分が救い主であることとをはっきりと証しされました。

2.イエス様の招きとそれを拒絶した人々(22~30節)
 
しかし人々はイエス様が語られたことばのすばらしさを認めつつも、イエス様が救い主であるということを信じませんでした。
  それに対してイエス様は、旧約聖書に出てくる話しから語られました。それを聞いた人々は激怒します。それはイエス様が語られたことが、人々の不信仰を指摘するものだったからです。
  しかし、人々は自分のプライドが邪魔をして、イエス様が本当に伝えようとされたことを見逃してしまっていました。イエス様が本当に伝えようとされたこと、それは、あなたがたも信じる者になりなさいということです。
  イエス様は、ただ人々の不信仰を厳しく指摘されたのではありませんでした。イエス様は人々に対して、あなたがたも信じて救われなさいと招いておられたのです。

考えよう

  イエス様の招きは、私たち一人一人に向けて語られていることでもあります。私たちもついイエス様を信じることができずに、不信仰に陥ってしまう者です。ですが、イエス様は、そんな私たち一人一人に「わたしを信じなさい」と招いておられるのです。 



―今週のみことば―

  イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、

この聖書のことばが実現しました。 ルカの福音書4章21節 



 

2月19日

聖書個所:士師記5章1節から31節
説教題:「デボラとバラクの賛歌」

テーマ ~主に信頼し、主を愛する者に~
 1.自然さえも支配しておられる主と主に背いた民(1~8節)
 
「主をほめたたえよ」とあるように、デボラとバラクは人々に呼びかけました。それは、主が必ず祈りを聞き届けてくださり、助けてくださるお方だからです。
  一方、イスラエルの民の状況は悲惨なものでした。20年もの間ひどく圧迫されたことで、イスラエルの民は困窮し尽していたばかりか、神様から離れていました。

2.戦いに勝利させてくださった主(9~23節)
  このような絶望的な状況を前にして、デボラは改めて人々に「主をほめたたえよ」と語りかけます。そしてすべての人々に対して、今こそ真の神様である主に立ち返り、ともに戦おうと呼びかけました。
  この呼びかけに応じて、主の民がやってきた一方、主の招きに応えなかった人々がいたことも語られています。ありのままの姿を書くことで、私たちに対して「主に信頼しなさい」と聖書は語りかけているのです。
  主の招きに応じたイスラエルの民は戦いに勝利しました。それは突如起こった洪水によるものでした。そしてその背後には、自然さえも支配しておられる主がおられました。主に信頼する者に、主は勝利を与えてくださるのです。

3.ヤエルに与えられた主の誉れとシセラの母の嘆き(24~31節)
  ヤエルは人との関係よりも神様との関係を大事にし、シセラを討ち取りました。それに加えてシセラの母の嘆きが語られます。主に背く者、主の敵の末路がいかに空しいものであるのかが語られています。
  デボラとバラクはこの歌を「主の敵がみな滅ぶように。そして主を愛する者が、栄えますように」という祈りで終えています。主を愛する者とは、主のみことばに従う者のことです。主を愛する者のことを主は祝福してくださるのです。

考えよう

  私たちは、困難や苦しみの中で、主に信頼できないことがあります。しかし、主はどんな絶望の中にあっても救い出すことがおできになるお方です。どうか主を愛し、主に従う者になることができますように。 



―今週のみことば―

  このように、よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽の

ようになりますように。」 士師記5章31節前半 

2023年3月

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3月5日

聖書個所:ルカの福音書4章31節から37節
説教題:「権威と力のあることば」
 

 テーマ ~救い主としてのイエス様の権威と力~
1.人々を教え続けられたイエス様(31~32節)
  郷里の人々の拒絶にあったイエス様は、同じガリラヤ地方の町、カペナウムへと行かれました。そしてこれまでと同じように、安息日毎に人々を教え続けられました。
  人々はイエス様の教えに驚きました。イエス様のことばには権威があったからです。イエス様の口から出ることば、イエス様ご自身の権威に、人々は驚きました。

2.ことばによって悪霊を追い出されたイエス様(33~35節)
  イエス様が会堂で人々を教え続けておられた中、ある出来事が起こりました。汚れた悪霊につかれた人が、イエス様に向かって叫んだのです。悪霊はイエス様を「あなたは聖なる方、神の子です」とおだてつつ、「私とあなたは何の関係もないのですから、私を見逃してください」と言いました。
  それに対してイエス様ははっきりと「黙れ、出て行け」と言われました。すると悪霊はイエス様のことばに従って、その人から出て行きました。イエス様のことばには悪霊でさえも有無を言わさずに従わせてしまうほどの権威があったのです。イエス様は、神の子、救い主であるというご自身の権威によって、悪霊さえも従わせました。

3.人々の驚きと広まったイエス様のうわさ(36~37節)
  この出来事を目の当たりにした人々は驚きました。人々は、イエス様には確かに人間を超えた権威があることを認めたのです。  そしてイエス様のうわさはカペナウムから、周辺の地域のいたるところへと広まっていきました。「イエス様がことばを発すると、悪霊でさえも出て行くそうだ」と、イエス様の権威と力に対する恐れ敬う気持ちも一緒に、周辺一帯に響き渡っていったのです。

チャレンジ

イエス様には悪霊さえも追い出すほどの権威と力があります。それは神の御子、救い主としての権威です。あなたも、イエス様こそ本当の救い主だと信じることができますように。 


―今週のみことば―

 イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。すると悪霊は、その人を人々の真ん中に投げ倒し、何の害も与えることなくその人から出て行った。

ルカの福音書4章35節 



3月12日

聖書個所:ルカの福音書4章38節から41節
説教題:「信仰に基づく告白」

 

~真の救い主イエス様~
 1.すべてのものを支配しておられるイエス様(38~39節)
  イエス様はシモンの家へと行かれました。するとシモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々はイエス様に彼女のことをお願いしました。
  すると驚くべきことが起こりました。なんとイエス様は熱を叱りつけられ、熱が下がったのです。イエス様はすべてのことを支配しておられるお方なのです。

2.癒し主であるイエス様(40節)
  さてそんなイエス様のもとに、人々は次々と病人を連れてきました。この時一日中働かれたイエス様の疲れはピークだったことでしょう。
  しかし、イエス様はそんな中病人たちを受け入れてくださいました。しかもイエス様は「一人ひとりに手を置いて」癒してくださいました。
  イエス様は私たちがイエス様のもとに行くとき、私たちのことを受け入れ、私たち一人ひとりに寄り添ってくださるお方です。

3.真の救い主イエス様(41節)
  さてこの時、悪霊どももイエス様によって人々から追い出されました。イエス様は悪霊がものを言うのを許しませんでした。
  それはイエス様が、ご自分が何のために来られたのかということをよくご存じだったからです。イエス様が来られたのは、私たちに根本的な救い、罪による滅びからの救いをもたらすためでした。これは病が癒されること、悪霊が追い出されることよりはるかにすばらしいことです。
  人々がイメージしていた都合のよい救い主としてではなく、人々に本当の救いをもたらすため来たということをイエス様はよくご存じでした。だからこそ、イエス様は人々の目をそらさせる悪霊を黙らせたのです。

チャレンジ

イエス様はすべてを支配しておられるお方であり、一人ひとりに寄り添ってくださる癒し主です。そしてイエス様は私たちを罪の滅びから救う真の救い主です。イエス様こそ救い主ですと私たちも信仰を持って告白しましょう。 


―今週のみことば―

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされ

た方のみこころを行うためです。 ヨハネの福音書6章38節 



3月19日

聖書個所:士師記6章1節から10節
説教題:「主の声に聞き従う」


~悔い改めて主のみことばに聞き従う~

 1.主の目に悪であることを行ったイスラエルの民(1節)
  イスラエルの人々は再び主の目に悪であることを行いました。救いのすばらしさを知ってもなお、罪の誘惑に負けてしまう。そんな弱さが、私たちにもあります。繰り返し罪を犯すイスラエルの人々の姿は、私たち自身の姿でもあります。
  もちろん、だから罪を犯し続けてよいということではありません。主はイスラエルの人々をミディアン人たちの手に渡されることによって、罪に気づかせようとなさいました。主は私たちに罪を気づかせ、悔い改めへと導いてくださるお方です。

2.弱くなったことで、主に叫び求めたイスラエルの民(2~6節)
  しかし人々は、すぐには主に助けを求めませんでした。人々はミディアン人を恐れ、彼らの前から逃げたのです。それはミディアン人たちが徹底してイスラエルの人々を苦しめたからでした。
  「すると」イスラエルの人々は主に助けを叫び求めました。自分たちが弱くなって、ミディアン人のことが恐ろしくなった後で、人々は主に助けを求めたのです。

3.背きを指摘し、心からの悔い改めを求めた主(7~10節)
 
主は、叫び求めるイスラエルの民に、主こそ真の神であるということを思い出させました。
  そしてさらに主は、イスラエルの民が主に信頼せず、主に背いたのだとはっきりと語られました。イスラエルの人々がミディアン人たちを恐れたのは、主の声に聞き従わなかったということだったのです。

考えよう
  私たちは日々の生活においてついつい誘惑に負けてしまう者かもしれません。ですがそれは主のことばに聞き従わないということ、主に対して背くことです。そして、神様はそんな私たちが心から悔い改め、主に心から従うことを求めておられるのです。

どうか、今、私たちが主の声に耳を傾け、主のことばに従うことができますように。 

―今週のみことば―

 わたしはあなたがたに言った。『わたしが、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」 士師記6章10節